砥部焼
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1976年(昭和51年)に国の伝統的工芸品に指定された[4]。 上尾峠から採掘された陶石を原料としている[5]。 乳白色で厚みのある磁器に、青い呉須で描かれた模様が特徴である[6]。 厚手で割れにくく、熱いものをいれても持ちやすく冷めにくいため、主に食器や花器などの日用品が作られている[7]。
主な模様は、植物の茎や葉、つるなどをかたどった唐草文、一つの円の周りを円で囲んだ太陽文、なずなという草花の種に似たなずな文、太い線を並べたシンプルな十草文などがあり、唐草文が代表的である[5]。 映画『瀬戸内海賊物語』(砥部町出身の大森研一が監督)においては、重要なシーンのアイテムとして砥部焼が用いられた。
生産地

現在の愛媛県伊予郡砥部町とその周辺地域が主な生産地域である。砥部町は、1989年に合併し砥部村となった大平(おおひら)・川登(かわのぼり)・岩谷口(いわやぐち)・大南(おおみなみ)・万年(まんねん)・五本松(ごほんまつ)・北川毛(きたがわけ)・外山(とやま)の8集落と[8]、(昭和30年)に合併した原町村の麻生(あそう)・宮内(みやうち)・千足(せんぞく)・川井(かわい)・七折(ななおれ)・大角蔵(おおかくら)の6集落[8]、2005年に合併し砥部町となった旧広田村の多居谷(おおいだに)、仙波(せんば)、総津(そうづ)、高市(たかいち)、玉谷(たまたに)、中野川(なかのかわ)、満穂(みつほ)の7集落が含まれる。
一帯には焼き物に必要な薪も近くの山々で豊富に採れたうえ、傾斜地に流れる渓流や小川は水車を据えるのに適しており、原料の砥石を砕き陶土にするために盛んに用いられた[9]。砥部川沿いには明治期以降に数多くの水車が建造され、代表的なものでは明治中期に建てられた佐川製陶所(登山窯)の水車小屋が現存する[10]。
こうした原料算出の場であり砥部焼のルーツを物語る川沿いの水車や窯元は、21世紀現在も砥部町の町内のいたるところで観ることができる[11]。
砥部町千足の国道33号の中央分離帯は、砥部焼による一辺65センチメートルのつぼ型のモニュメントが並び砥部陶街道と名付けられた[12]。八瑞窯の成型によるもので、絵付けは陶芸家10人が分担した[12]。
おもなシンボル

- 陶街道夢タワー「愛伊砥(えいと)くん」- 松山市との境界にあたる砥部町拾町に焼き物の里のランドマークとして建設された高さ約15メートルの塔で、砥部焼の陶板を使用し、八角形の形状をとる。愛称は公募で決定し、愛媛県・伊予郡、砥部町の頭文字をつなぎつつ、タワーが八角形であることや、砥部町がますます発展する(栄砥)ようになどの複数の意味が含まれている[13]。
- 砥部焼聖火台モニュメント - 伊予郡砥部町大南368にある砥部焼製のモニュメントで、台座を含む全高は約4メートル、直径約1メートルの聖火台の炎をイメージして製作された。2021年(令和3年)公開の映画『未来へのかたち』(監督:大森研一)に登場する[14]。
砥部焼まつり

歴史
発祥
磁器の原料となる陶石は、外山の砥石山で採石される「砥石」で、奈良時代では刃物を磨き、江戸時代では武士が使う刀剣を磨く「伊代砥」として生産された[15][7]。 この砥石のうち品質の劣る屑石を使い、安定した産業を求めて江戸時代中期に磁器づくりが始まった[16][10]。
産業としての砥部焼の発祥は一説に拠れば1777年(安永6年)とされる[2]。江戸時代、大洲藩は伊予砥の生産を振興したが、砥石屑の始末は村人の重労働だった。伊予砥の交易に携わっていた大阪商人・和泉屋治兵衛は、天草の砥石屑が磁器作りに用いられていることを知り、大洲藩に伊予砥屑での磁器生産を提案[17]。九代藩主、加藤泰候(かとう やすとき)は好ましくなかった藩の財政を立て直すため、伊予砥の屑石の有効活用を図って特に磁器づくりを命じ、杉野丈助(すぎの じょうすけ)が砥部村の五本松と呼ばれた地に土と石を塗り込めて4.5室の登り窯を据えた。北川毛や大南の陶工の協力も得て1777年(安永6年)12月10日にはじめて白地に藍色の焼き物作りに成功したと伝えられる[9]。
江戸時代
文政元年(1818年)向井源治が砥部川上流の川登の川底でより質の良い陶石を発見し、これ以後砥部焼の品質は急速に向上した[10]。
製法も工夫され、嘉永元年(1848年)にはトンバリと呼ばれるレンガ造の窯が導入され、嘉永4年(1851年)には城戸源六が素焼窯を考案した[18]。
砥部焼づくりは順調にのびて、嘉永年間(19世紀中ごろ)には砥部には15件ほどの窯元ができ、生産高は上昇し[19]、江戸時代後期には砥部村に17軒の窯元があって、その生産総額は米の生産額に匹敵する規模にまで発展した[16]。
窯元には冥加金のほか窯運上と俵運上の2種類の税が課せられた。大洲藩は瀬戸物役所、新谷藩は唐津役所を設け窯元から税金を取り立てたり問屋を通じて焼物を納入させたり材料の購入資金の貸し付け等を行った[20]。
大阪の淀川で船客に食べ物を売るときに使われた砥部焼が「クラワンカ茶碗」といわれている[20]。
明治時代
明治期に入ると、新たな陶石(万年石等)の発見に伴って生産量が増え、砥部川沿いに陶石を砕くための水車が連なった[10]。廃藩置県により、工芸技術者の行き来が盛んになったことで、それまで各藩が抱え込み、門外不出とされた陶磁器作りの技術が流出した。瀬戸や唐津、あるいは京都などの当時の先進地の情報が砥部にもたらされるようになり、砥部焼も量産が可能となった。1984年(明治27年)頃には砥部の労働人口の半分以上が製陶業に従事していた[21]。
販路は、1872年(明治5年)頃から松前(現在の伊予郡松前町)の唐津船で全国へ広がった。もともと、松前は海に面しており、小船を生かし沿岸の街を行き来する商人が居たが、松前は松山藩、砥部は大洲藩であり、住民の交流は乏しかった。しかし、松前の商人が砥部焼の商品性に着目し、商品として扱うよう求めたもので、廃藩置県の副次効果と評価される。その後、海外への輸出商品として、郡中港(現在の伊予市の伊予港)から出荷された時期もあった[22]。
1890年(明治23年)、中国・建窯の美しいクリーム色の焼き物に魅了されこれを研究した向井窯が、これを再現し「淡黄磁(たんおうじ)」の製陶に成功する[23]。淡黄磁は1893年(明治26年)にシカゴ万国博覧会に出品され1等の評価を受けた[23]。向井は全国各地から砥部に名工を招き、陶磁企業組合を結成するなど後進の育成と産地の発展に尽くし、伊藤允譲(五松斎)が小判を潰して金色を採り入れ製陶した錦絵磁器の花瓶など美術工芸品としての砥部焼の評価を高めた[23]。この錦絵磁器は砥部町文化財に指定されている[23]。
1906年(明治39年)に陶器補習学校が創立され、1915年(大正4年)には村立砥部工業徒弟学校となり、やがて村立砥部工業学校となった[22]。
昭和時代
1966年(昭和41年)、陶工を養成するため愛媛県立松山南高等学校砥部分校に工芸科が設置された。
1976年(昭和51年)12月15日に通商産業省(現・経済産業省)の伝統的工芸品に指定された[24]。焼き物としては6番目の指定である[25]。
平成時代

1989年(平成元年)4月、砥部焼伝統産業会館が開館し、開館後5年で20万人の来館者を迎える[2]。1994年(平成6年)までに砥部町に町外から砥部焼を購入に来る買い物客は50万人を超え、窯元は90軒となった[2]。1994年(平成6年)時点で記録された購買者は町民約6万人に対して、近隣市町村民約18万人、県外約36万人である[2]。窯業を学ぶために砥部町に移住する人や[2]、独立して窯を開く職人や女性作家も増え、窯業団地の建設も計画された[2]。
2005年(平成17年)12月27日愛媛県指定無形文化財に指定され、術保持者として、酒井芳美(雅号・芳人、砥部町五本松)が認定された。
令和時代
2025年(令和7年)11月、砥部焼の原材料である砥部陶石を最後まで唯一生産していた伊予鉱業所が経営者の体調不良を理由に受注を停止、2025年11月末で砕石業務を終了することが報道された[26]。伊予鉱業所は1973年創業で、2025年現在三代目の経営者が経営しており、陶石の採掘から洗浄、粘土化までを担っていた。当時の従業員は5名で月産4トンの粘土を70の窯元に出荷していた。需要の低迷や同業者の統廃合により20年前から唯一の砥部陶石の生産企業となっていた。伊予鉱業所は事業終了を10月16日に砥部焼協同組合に伝え、今後の採掘業務を砥部焼協同組合に委ねる予定とされる。
製法
- 陶石の採掘
- 杯土の生成 - おもに製土工場で行われる
- 土練り - おもに真空土練機を用いる
- 成形 - おもにろくろが用いられる。
- 乾燥
- 素焼き - 約900~1000度で、製品により8~17時間かけて焼く
- 下絵付け - おもに手描きで行われる
- 釉(うわぐすり)
- 本焼き - 約1300度で15~24時間かけて焼く
製品
おもな窯元
先駆者となった窯元
- 北川毛焼 - 元文年間に砥部焼を焼成していたとみられる最古の窯で、跡地から徳利や鉢などの日常品が出土した[28]。
- 愛山窯 - 文化10年(1813年)に向井源治が五本松に築窯したもので、その曽孫にあたる2代和平によって「淡黄磁」が生み出された。さらに3代和平は「愛山製」とよばれる白磁や錦絵磁器などの優れた作品を残した。1922年(大正11年)に廃窯[28]。
- 坂本窯 - 近代の砥部焼屈指の大登窯で、坪内家文書によれば嘉永年間には焼成していた。坂本源兵衛が創業して養子が継ぎ3代まで続いたが大正時代の不況で廃窯[28]。
- 伊藤五松斎窯 - 五本松の旧庄屋であった伊藤允譲が明治初期に開窯した。肥前の技法に学び、小判を潰して金色を出すなど華やかで芸術的な作品の焼成を研究し、評価された[28]。
- 上原焼 - 大洲藩主から下賜されたため「拝領窯」と呼ばれ、歴代藩主の保護を受けた。砥部焼の登り窯では最古の窯で、五本松上原に築窯された[28]。1800年(寛政12年)には上原窯から独立した陶工・喜世八が大宮八幡宮の神輿の渡御する御旅所の北に新たに登り窯を築いて後世に残し、明治期には砥部焼の海外輸出の先駆となった[28]。
