破墨山水図
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雪舟76歳のとき、雪舟のもとで画を学んでいた鎌倉円覚寺蔵主の如水宗淵が修業を終えて東国へ帰るにあたり、乞われて描いたものである。長文の自賛のなかでは宗淵を「勉励最も深し」と賞賛している[6]。宗淵は東帰の途上、京において6名の禅僧に賛を求めた[7][8]。
本作は宗淵によって鎌倉にもたらされ、寛文11年(1671年)の『弁玉集』は鎌倉に所在すると記しているが、元禄9年(1696年)には京都の臨済宗相国寺に移っていることが『図書考略記』によって知られる[9]。文政13年(1830年)に塔頭・慈照院に移り、廃仏棄釈のおりに他所へ渡ってから[10]、1905年(明治38年)12月に帝室博物館(現・東京国立博物館)所蔵となった[11]。
1952年(昭和27年)に国宝に指定された。この際の登録名称は単に「山水図」とされたが、学界で「破墨」「潑墨」の両説が論争されている問題(#技法と呼称を参照)を避けるためであったと目される[2]。
内容
画
画は玉澗風の手法で、屹立する崖の近景を濃墨で点じ、背後にそそり立つ遠山を淡墨で描いている[12]。崖の右下には家屋と柵と旗竿を思わせる形状が比較的明瞭に描かれており、水上には舟に乗った人物がみえる[13]。
赤沢英二は、通常の雪舟の山水図のような、下縁に濃墨の岩石などを配置して距離感を演出する手法や、「秋冬山水図」のような岩石の構築性は、本作には見られないと指摘している[12]。島尾新も、本作は「他のものと比べて瀟洒ともいえる柔らかさ」で、雪舟特有の荒っぽさが見られないと解説している[8]。
以上のように従来の雪舟の画風と異なる点が注目される一方、海老根聰郎はやはり軽い調子や簡疎な構成を認めつつ、形象が空間に融解して広がりをもつ玉澗の作風に対し、本作の「形象は孤立的で余白に対立する」という特徴を指摘し、雪舟の独自性を見いだしている[14]。
賛
賛は雪舟の自序と、京の禅僧6名による題詩である[5]。6僧の詩は画および自賛とは別紙である[15]。
自序
相陽 の宗淵蔵 主 は余 に従 ひ、画 を学 びて年 有 り。筆 は已 に典刑 あり。意 を兹 の芸 に遊 ばせて、勉励 尤 も深 き也 。今 春 、帰 るを告 げて謂 ひて曰 く、願 はくば翁 の一 図 を獲 て、以 て我 が家 の箕 裘青氈 と為 さんと欲 す、と。数日 、余 に之 を責 む。余 の眼 は昏 く心 は耄 へ、製 する所以 を知 らずと雖 も、其 の志 に逼 られて、輙 ち禿筆 を拈 り、淡墨 を洒 ぎ、之 に与 へて曰 く、余 は曽 つて大宋国 に入 り、北 のかた大江 を渉 り、斉 魯 の郊 を経 て、洛 に至 りて、画 師 を求 む。然 りと雖 も揮 染 の清抜 なる者 は稀 なり。兹 に於 て長 有聲 并 びに李 在 の二 人時 に名 を得 たり。相 随 ひて設色 の旨 と兼 ねて破 墨 の法 を伝 ふ。数年 にして本邦 に帰 るや、吾 祖 如拙 周文 両 翁 の製作 、楷 模 、皆 一 に前輩 の作 を承 けて、敢 へて増損 せざるを熟 知 せる也 。支矮 〔ママ〕の間 を歴覧 して、弥 よ両 翁 の心識 の高妙 なるを仰 ぐ者 か。子 の求 めに応 へて嘲 りを顧 みず書 す。
明応乙卯 季 春中 澣 の日
四 明天童第一 座 老 境 七十六翁雪舟書 す — 雪舟自序(書き下し)[16]
室町時代の画家みずからの言葉は珍しく、この自賛の存在は本作を著名にした[5]。自賛は本作を描いた経緯を記したあと、明代の中国を訪ねた際を回想して「自分は『大宋国』に入って絵師を探したが、技術のすぐれた者は稀であった。そのなかで名声を得ていた長有声と李在に師事し、彩色と破墨の技法を学んだ。日本へ帰ってみると、『吾祖』である如拙と周文の画業の偉大さに感じ入った」と述べている[17]。李在は宣徳年間(1426年 - 1635年)の山水画家としてその存在が知られている[18]が、長有声なる絵師については伝わっておらず、雪舟による誤記とみられる[19][20]。
中国に優れた絵師がまれであるような表現は、彦龍周興『半陶稿』にも「大唐国裏画師なし、画無しと
「支矮」は「支倭」(「中国と日本」の意)の誤記とされる[19][20]。
題詩
題詩は、この画を得た宗淵が京都五山屈指の名詩僧6名(月翁周鏡、蘭坡景茝、天隠龍沢、正宗龍統、了庵桂悟、景徐周麟)を訪問して請うたものである。着賛の時期は雪舟自賛の明応4年ごろと考えられているが、山本英男は周麟の賛を明応6年春としている[24]。星山晋也の推定では、宗淵はまず相国寺鹿苑院塔主の周鏡の詩を得たあと、おそらく周鏡の助言によって等持院の景茝を訪ね、次いで建仁寺に赴いて龍沢と龍統に会い、東福寺に行って桂悟に会い、最後に相国寺に戻って周鏡に各人の詩を見せたあと、その弟子の周麟の詩を得たものとする[25]。
これに対して相澤正彦は、宗淵は僧の一人一人というより、これらの面々からなる文人サロンに賛を求めたと推測している[26]。この6僧に横川景三、功叔周全を加えた8僧は、明応2年(1493年)の賢江祥啓の画軸(現存せず、賛は『古画備考』所収)に、本作と同じ序列で着賛している[27]。そして同年の景三の死を経て、周全を除き桂林徳昌を加えた7僧は、本作と同じ明応4年の「銭塘観潮図」(根津美術館蔵)にも同じ序列で着賛しており、さらに3年後の明応7年(1498年)10月には、詩文集『北斗集』をやはり同じ序列で編んでいる[28]。
福島恒徳は、無名に近い宗淵が彼らを訪問するには誰かしらの仲介者が必要であったと推測しており、その役割を担った人物は不明ながら、その候補として福島は景茝(宗淵に詩作を教えた)および桂悟(山口の雪舟や禅林と交流をもった)を、相澤は祥啓を挙げている[29][30]。
周鏡は本作を「酔墨」、龍統も「酔後筆端」と表現し、酒の酔いにまかせて描いた作品としたうえで賞賛している[31]。龍沢は本作の画風を「玉澗筆法」を模したものであり、玉澗の描いた西湖を想起させると述べている[32]。画中の旗竿について、周鏡と龍統は「酒旗」、景茝は「
木下長宏は、本作に対して6名の高僧はそれぞれ異なったイメージを抱いているとして、この画がかかえた多義性を指摘している[36]。
技法と呼称
本作を「破墨山水」と称する例については、古くは元禄9年序文(1696年)の『図書考略記』に、雪舟による自賛の全文を引用して「是号破墨山水」とある[9]。
衛藤駿の解説によると、破墨は、淡墨で絵の要所を描いたのち、それが乾かないうちに濃墨を点ずる技法であり、元代の玉澗による潑墨の技法にあたる[37]。滝精一は、破墨と潑墨とは相対する技法ではないとした[38]。田中豊蔵は1918年の論文で、破墨は「水墨」と同義であり、潑墨はそれに包摂される概念であるから、本作を「破墨山水」と称するのは誤りではないが、むしろ潑墨と称したほうが厳密であるとした[39]。しかし1947年の続稿で、雪舟自身は本作を破墨のつもりで描いたのではないかとする考えに転じている[40]。
これに対して、本作の技法はあくまで破墨ではなく潑墨と称するべきであるとする説が、鵜飼壬子郎[41]や中村渓男[3][11][42]によって唱えられている。鵜飼は、破墨の法は描く物体の輪郭をある程度明瞭にするのに対し、潑墨の法は物体と周囲の大気が溶けあう表現を図るものであるとしたうえで、本作を後者に措定した[41]。中村は田中豊蔵論文[39]における主張を踏襲しつつ、破墨は通常の水墨の正道的な方法であるのに対し、潑墨は振りまきちらした墨を引っ掻いたり掃いたりして闊達に描く権道的なもので、賛のなかの表現をみても後者の方法を用いている観を深くすると主張した[11]。田中一松は、画法における楷・行・草の3つの様式のうち、草体の山水が潑墨山水であるとしたうえで[43]、中国の芸術研究家のあいだでは、淡墨のなかに濃墨を落として滲ませるような技法は破墨ではなく潑墨にあたるという認識が一般的であると指摘し、本作は潑墨山水図と称するべきであるとしている[44]。
下店静市は鵜飼への反論のなかで、潑墨とは墨がこぼれ散ったように描く技法で、筆あとがないものであると主張し、本作には筆の痕跡が明白であるから破墨とするべきであると述べた[45]。矢代幸雄は、自賛に中国で「破墨」を学んだ旨が記されていることから、本作がその実践であると推定している。そのうえで、本作における自由な墨の用法や、賛には雪舟の詩友による「破墨」の語がみえることも踏まえると、雪舟自身も本作を破墨の作例と受け取られることに異議はなかったと考えられ、「破墨山水」と称して差し支えないと主張している[46]。鵜飼や田中豊蔵は、自賛にみえる「破墨」の語は本作の技法が破墨であると証するものではないとしている[47][48]。
評価
田中一松は、潑墨の技法における墨の散らし方が激しい玉澗に対して、雪舟は墨の濃淡をより巧みに扱って靄のかかった景色をよく表現しているとし、日本の潑墨山水は雪舟において特異な境地に達したと評している[49]。
雪舟が本作に玉澗流の潑墨体を選んだことについて、赤沢英二は老境の雪舟が師・周文の心識を表現しようとするにあたり、その直模的な手法をこえてたどり着いた境地であると評している[12]。その一方で、結局は周文の影響を受けた典型様式の展開であり、周文の「呪縛的な要素」からは抜け出せなかったとしている[12]。
島尾新は本作の目的について、宗淵に託して京の著名な禅僧たちに詩を寄せてもらうことで、京における権威を獲得して存在感を高めることにあったとしている。自賛には、中国と日本の各地を歴訪したことへの自負と、周文に連なる自らの画系の主張がみられると指摘している[8]。本作のタッチが雪舟らしい荒々しさをもっていないのは、上の目的に沿って周文らしい都風のタッチを採用したためであるとする[8]。