礦税の禍
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背景
明朝第13代皇帝、穆宗隆慶帝が1572年(隆慶六年)に崩御すると、息子の朱翊鈞が幼年で後を継ぎ、神宗万暦帝として明朝第14代皇帝に即位した。この時小さかった翊鈞に帝王学を教えるともに、国政を輔佐したのが時の内閣大学士、張居正である。

張居正は一条鞭法などの税制改革、丈量と呼ばれる優れた検地システム、内閣大学士を頂点とした官僚機構を形作った考正法など、さまざま制度を導入した。ここに、第10代皇帝、孝宗弘治帝の中興からは傾きつつあった明王朝が立て直す、万暦の中興が起こる。
これらの改革の成功が、後世に張居正が非常に優秀な人物と評価されるようになった由縁である一方で、その強引な改革・綱紀粛正政策により既得権益を剥奪された者たちや、政敵を容赦なく粛清・失脚させる彼のやり方に不満を持つものたちなどは増えていった。
このようにして中央政府内の顰蹙を買ってしまった張居正だが、1581年(万暦九年)に病に倒れて死去する。
死後、張居正は親の死の時に喪に服さなければならないのにも関わらず、政治上の判断からそれを無視して職務を続行したということで弾劾され、称号栄典を剥奪された上に家産没収、家族は辺境に送られた。その後の朝廷においては綱紀粛正がどんどん緩み、張居正の生前は彼に帝王学を厳しく教育されていた万暦帝も政務を放棄して贅沢を好むようになり、張居正の代に築きあげられた遺産はすべて使い潰されてしまった。
礦税の禍
第14代皇帝に即位した神宗万暦帝の治世下では、その最初期こそ前述の改革で中興したが、宮殿の火災や万暦の三征と呼ばれる軍事遠征など巨大な財政出動を必要とする事件が多く発生し、国庫の状況は直ぐに悪化した。
国庫の不足を補うため、万暦帝は1596年(万暦二十四年)に宦官を全国各地に派遣し、鉱山の開発と商税の増徴を行わせた。これら遣わされた宦官を鉱使・税使と呼ぶ。
このときの宦官は勅命をかざし地方の官吏や資産家を皇帝の名のもとに脅して、不法な要求をした。このころから暴政に耐えかねた民衆が反乱を行うようになり、それが後の明朝崩壊につながった。[2]
これには朝廷の官僚からも強い懸念・反対の声が上がったため、1605年(万暦三十三年)には一時開鉱をやめた。宦官によって行われた業務も地方官吏に権限が委譲された。しかし結局1620年(泰昌元年)に万暦の世が終わるまで禍は続き、明朝に取り返しのつかない損害を与えることになった。