第14代皇帝に即位した神宗万暦帝の治世下では、その最初期こそ前述の改革で中興したが、宮殿の火災や万暦の三征と呼ばれる軍事遠征など巨大な財政出動を必要とする事件が多く発生し、国庫の状況は直ぐに悪化した。
国庫の不足を補うため、万暦帝は1596年(万暦二十四年)に宦官を全国各地に派遣し、鉱山の開発と商税の増徴を行わせた。これら遣わされた宦官を鉱使・税使と呼ぶ。
このときの宦官は勅命をかざし地方の官吏や資産家を皇帝の名のもとに脅して、不法な要求をした。このころから暴政に耐えかねた民衆が反乱を行うようになり、それが後の明朝崩壊につながった。[2]
これには朝廷の官僚からも強い懸念・反対の声が上がったため、1605年(万暦三十三年)には一時開鉱をやめた。宦官によって行われた業務も地方官吏に権限が委譲された。しかし結局1620年(泰昌元年)に万暦の世が終わるまで禍は続き、明朝に取り返しのつかない損害を与えることになった。
なお、一連の徴税により300万両ほどの銀が徴収されたとされている。[1]