祇園山古墳
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| 祇園山古墳 | |
|---|---|
| 所属 | 祇園山古墳群 |
| 所在地 | 福岡県久留米市御井町299-219 |
| 位置 | 北緯33度18分11.9秒 東経130度33分15.63秒 / 北緯33.303306度 東経130.5543417度 |
| 形状 | 方墳(基部楕円形) |
| 規模 | 東西約23.7メートル、南北約22.9メートル、高さ約6メートル |
| 出土品 | 三角縁神獣鏡(伝)・変型方格規矩鏡(伝)、墳裾外周甕棺1号墓から後漢鏡片、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、鉄製刀子、その他鉄製武器および農具 |
| 築造時期 | 4世紀初頭 |
| 史跡 | 県の史跡 |
| 地図 | |
祇園山古墳(ぎおんやまこふん)は、福岡県久留米市御井町字高良山に所在し、福岡県指定史跡に指定されている方墳である[1][2]。3世紀中頃の築造と推定されていた。祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られてきた。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものである。
ところが、庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。 今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
また、上記土器編年により、4世紀初頭の実年代が与えられている。このことにより、卑弥呼の墓とする説はすでに消滅したと見なすことができる。
耳納山系西端の高良山から西の平野に向かって派生する丘陵の先端部にある高良大社の山腹にあり、筑後平野を一望の下に見渡すことのできる台地(赤黒山)の上に位置しており、占地の意図を窺わせる。同台地上の祇園山古墳南側にはさらに5基の古墳があり、総称して「祇園山古墳群」と呼ばれる[3]。
『記紀』によれば仲哀天皇9年に仲哀天皇と神功皇后が熊襲討伐のため筑紫に幸し高良山に滞在(安在地・朝妻)し、朝鮮半島に出兵時には高良の神が神功皇后を援け給うと伝えられ、高良大社には神功皇后を補佐した武内宿禰が祀られている。その後も磐井の乱では筑紫君磐井がここに陣を置いたと伝えられており、『日本書紀』斉明天皇4年(658年)条[4]の「繕修城柵断塞山川」が古代山城と伝えられている。また豊臣秀吉は1587年(天正15年)の島津氏討伐の際、高良山の吉見岳城に本陣を置いた。有史以来多くの戦乱で砦が置かれているように、この地は朝倉方面、福岡方面、八女方面、また鹿島方面など筑紫平野を一望できる戦略的な要衝であり、高良大社、高良山城などの文化財も多い。
古墳は、高さの約1/4を地山から方形台状に削り出しており、その基部は楕円形をなしている。場所は 九州自動車道に面しており、久留米インターチェンジから高速道下り方向1.7キロメートル地点から目視することができる[5]。
古墳は九州自動車道建設のために削開されるところを、福岡県教育委員会および市民による道路公団に対する保存運動により、1969年(昭和44年)12月11日から1972年(昭和47年)6月1日まで5次にわたる埋蔵文化財の発掘調査が行われた[6]。調査結果による重要性の認識から、工事は基部の部分的な削開にとどまり、かろうじて遺構の約80%が現地保存された[7]。
規模・形状
埋葬施設
副葬品
墳頂部箱式石棺は古い時代に盗掘を受けたと見られ、主体部の副葬品は失なわれている。近傍の高良大社に出土品と伝わる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)[8]および変型方格規矩鏡[9]があるものの、詳細な由来は不明である。
墳裾外周部の第1号甕棺墓(K1)は内部が朱に塗られ、成人女性人骨、後漢鏡片(半円方格帯鏡:主銘「吾作明口幽湅三商周□無□配疆會…番昌兮」、副銘「善同出丹□」)、大きさ5センチメートルの大型硬玉製勾玉、2個の両面穿孔碧玉製管玉、刀子が出土し、九州歴史資料館に収蔵されている。成人女性は被葬者の従者ないし巫女の頭と考えられている。
形状不明のG1号墓主体からは3世紀の畿内では出土していない刀子、鉄鏃、剣、刀身などの鉄製武器だけでなく、鎌、錐、手斧鍬などの鉄製農具も出土している。墳裾の各所から古式土師器(西新式土器)、須恵器等が多数出土している[1]。
卑弥呼の墓説
古代日本では、『魏志倭人伝』や『記紀』の中に殉死・殉葬に関する記事が見られるものの、実際の弥生墳丘墓や古墳において、確実に殉葬が行われたと捉えられる出土人骨や遺構の事例は確認されていない。福岡県糸島市平原遺跡の3号墓周濠を、底部で見つかった朱や掘り込み形状から16人分の殉葬溝と見る原田大六の見解もあったが[10]、今日の再検討報告では殉葬溝とは見なされておらず[11]、同遺跡4号墓周溝内土坑墓1基のみに対し殉葬墓の可能性が指摘される[注 1]以外は全て追葬墓と見なされている[13]。祇園山古墳の発掘調査報告書でも、墳裾外周で検出された66人分以上の墓群について、百年ほどの期間で造営されたとみられることから、祇園山古墳の被葬者を盟主とする集団の集団墓と捉えている[14]。
これについて宝賀寿男は、この墓群を1つの棺に「差し違い2体葬」があることや、墳丘築造前の棺が見られないこと、全ての棺が墳丘裾内に存在することなどを挙げてこれらを同時期の埋葬ではないかとして、殉葬者の墓ではないかとしている。また大塚初重の意見に賛同し、弥生時代の築造ならば集団墓ではなく個人の墓であろうとしている[15]。ただし「差し違い2体葬」については1棺への2体葬が必ずしも同時埋葬ではなく、追葬と考えうる時間差がある事例が多いことは、祇園山2号墳石蓋土壙墓例などから指摘されている[16][17]。
また宝賀は、墳墓の形状、主体部(石棺)、築造時期が3世紀中期であると考えられること、規模が一辺約23メートル・斜辺32メートルで下部が楕円状であること、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に埴輪がなく墓群があること(殉葬者と仮定)、そのうちの第1号甕棺墓(K1)からは後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1号墓からは鉄製の武器や農具が出土し、時期的に矛盾が無いことなどが『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓の記載と一致するとしている。また魏朝の薄葬令や朝鮮諸国、帯方郡の墳墓がいずれも30メートル前後の方墳であったことなど、国際的観点から照らし合わせても同墳の規模に不自然さが無く、さらにこの古墳が邪馬台国が存在した可能性のある筑紫平野を一望できる高台に占地することをあげて、卑弥呼の墓ではないかとの説を示している[15]。
そのほかに、村下要助・廣木順作が同古墳(弥生墳丘墓)を卑弥呼の墓であると主張している[18][19]。また石野博信は畿内説論者であるが、邪馬台国を筑紫に想定した場合、同古墳が卑弥呼の墓として「有力候補になってくるのかもしれない」と述べた[20]。このほか、田中幸夫は様相が卑弥呼の墓に類似するとした[21]。学術論文ではないが作家の足立倫行は、2011年に『週刊朝日』に掲載した紀行文の中で、築造を卑弥呼没年より半世紀後としつつも、卑弥呼の墓を彷彿させると述べた[22]。