祖郎
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涇県を中心に丹陽・宣城などにも勢力を広げていた宗部[1]の首領である。
192年(初平3年)、孫策が呉景の元に身を寄せていた時、呂範・孫河と共に数百の兵を集めた。この時、祖郎は孫策を急襲し、孫策は危うく死ぬところであって、孫策軍は全滅に近い被害を受けた[2]。のち孫策は呉景の建言に従って孫河・呂範らと共に合力して祖郎を攻撃して敗走させた。
197年(建安2年)、袁術が皇帝を名乗ると、孫策が袁胤を追放し孫輔に袁術を防がせたため袁術は孫策を深く恨んだ。袁術は祖郎に印綬を送って孫策の背後を突かせようとした[3]。孫策は包囲されたが、程普ともう一騎の兵で孫策を守って撤退した[4]。
孫策は孫輔・呂範・程普と共に陵陽に進軍して祖郎を破り、生け捕りにした[5]。孫策が祖郎の才能を惜しんで宿怨を忘れ配下に迎えたため、祖郎は頭を打ち付けて孫策に謝罪した。祖郎は門下賊曹に任命され、孫策の帰還の際には太史慈と共に軍の先導役を務めた[6]。
その後、史書には登場しない。
脚注
- ↑ ちくま学芸文庫『三國志』孫輔伝 注『江表伝』では「宗帥」を「宗部一揆(宗教的なコミューン)の首領」と訳しているが、他の伝の祖郎の肩書は「大帥」「彊宗驍帥」「山賊」と宗教的要素はなく、翻訳も一揆の首領、反乱者などである(張角、張脩などは「妖賊」と表記される)。また孫策伝の引く『江表伝』では「宗帥」を「地方の独立権力のボス」と訳している。また『三國志集解』で胡三省や惠棟らは宗部は宗伍、宗賊、宗民などと同様の語句で、民衆が相互に結んだ一揆的な集団としている。
- ↑ 『三國志』注『江表伝』
- ↑ 『三国志』呉書 孫策伝注『江表伝』では陳瑀が丹陽郡の各地の賊に印綬を配っている。
- ↑ 『三國志』呉書 程普伝
- ↑ 『三國志』呉書 孫輔伝「又從策討陵陽、生得祖郞等。」
- ↑ 『三國志』注『江表伝』
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