京師大学堂(後の北京大学)を卒業。日本に留学して中央大学で学んだ[1][2]。帰国後は北京政府の外交部で任用され、弁事員、検事、秘書を歴任する。1913年(民国2年)12月31日、駐米公使館一等秘書官署理として米国で赴任した[3]。
1917年(民国6年)の帰国後も、祝惺元は外交部で秘書などを歴任している。1920年(民国9年)10月13日、外交部特派直隷交渉員に任ぜられた。1924年(民国13年)12月19日にいったん免ぜられたが、1926年(民国15年)1月15日には同職に再任されている。その後も外交部で編纂処纂修、検事、政務司第四科科長を歴任した[3]。
国民政府では、北平市政府専員となる。1930年(民国19年)、国民政府陸海空軍総司令部外交処亜洲組組長に任ぜられた[1][2]。翌1931年(民国20年)12月21日、外交部参事となっている[3]。その後も、外交部顧問、北平市政府専員を歴任した[1][2]。
日中戦争(抗日戦争)勃発後、祝惺元は中華民国臨時政府創設に参与し、1938年(民国27年)6月6日には天津市社会局局長に任命された[4]。翌1939年(民国28年)7月、王克敏らの意向により、臨時政府が印刷出版会社・新民印書館の全持株を購入する。これにより前董事長・池宗墨を含む経営陣は総入替となり、新たに董事長となった曹汝霖の下で祝は常務董事に就任した[5]。なお、曹の董事長招聘に際しては、祝も役割を果たしていたとされる[6]。同年9月1日、祝は天津市社会局長を辞職した[7]。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。同年5月14日、祝惺元は同委員会において政務庁外務局局長代理に任命された[8]。ところが6月6日[注 2]に朱深が政務庁庁長の職務を離れたため、外務局長代理となったばかりの祝が庁長暫時代理兼務となる[9]。さらに7月17日、祝は政務庁庁長に正式任命された[10][注 3]。1942年(民国31年)3月26日、祝は政務庁庁長を辞し、華北政務委員会委員(専任)に改めて任命された[11][12]。
翌1943年(民国32年)2月、華北政務委員会委員長が王揖唐から朱深に交替した際、華北政務委員会委員の辞任及び改任が行われた。しかし、祝惺元は辞任・改任の委員に含まれておらず[13]、この時点までに華北政務委員会委員を退任していたと考えられる。
日本敗北後の1945年(民国34年)8月時点でも、祝は依然として新民印書館の常務董事に在任していた[14]。これ以降の祝の行方は不詳だが、漢奸として逮捕・訴追された旨の情報は見当たらない。