神吉頼定

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生誕 天文19年(1550年
別名 神吉頼治、神吉民部少輔・民部大輔
 
神吉 頼定
神吉城城主・神吉頼定の墓(加古川市
時代 室町時代 - 安土桃山時代
生誕 天文19年(1550年
死没 天正6年7月16日1578年8月19日[1]
別名 神吉頼治、神吉民部少輔・民部大輔
戒名 捨往院殿徹旺頑牲大居士?
墓所 常楽寺
官位 従五位上、民部少輔
主君 別所氏
氏族 神吉氏
父母 父: 神吉頼氏
兄弟 信烈頼定
黒田孝高の娘
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神吉 頼定(かんき よりさだ)は、日本の武将神吉城主、別所氏家臣[2]。通称は民部少輔[3]

三木合戦で戦功をあげるも、叔父の神吉貞光に暗殺され死去した[3]

官途は民部少輔だと言われるが、一部では民部大輔とも言われている[4]。また、頼定の他に頼治という別名もあるとされる[4]

生涯

出自

父は神吉城主の神吉頼氏[3]。一説だと神吉頼経とも言われている[5]別所氏の連枝衆で、一万石を領した[3]神吉氏は代々、赤松氏の庶流であった。神吉城の初代城主は赤松氏の赤松範次である[4]

三木合戦

1578年天正6年)の織田信長による中国攻めの際、頼定は衣笠範景淡河定範間島氏勝長井長重櫛橋伊定梶原景行らと共に別所長治側に着いた。別所長治は援軍として頼定に梶原景治柏原治郎右衛門黒田若狭守中村壹岐守ら約1800の兵を率いて籠城した[4]

死去

神吉城を落とせなかった織田勢の1人、佐久間信盛は密かに頼定の叔父・神吉貞光を内応させ、佐久間信盛と貞光の軍勢により頼定は暗殺されたと言われる。しかし、これは創作とも言われており、本来は豊臣秀吉の軍勢が一気に押し掛かり頼定を討死させ、神吉城を落としたとも言われる[4]。墓は加古川市神吉町の常楽寺。

登場作品

脚注

参考文献

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