間島氏勝

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 生年不明
死没 没年不明(一説に文禄2年12月23日1594年2月13日))
別名 彦太郎(通称
 
間島 氏勝
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 生年不明
死没 没年不明(一説に文禄2年12月23日1594年2月13日))
別名 彦太郎(通称
戒名 寶珠寺殿露白富朝居士
官位 兵衛尉、右兵衛尉、因幡守
主君 豊臣秀吉秀頼黒田孝高
氏族 間島氏
父母 父:間島氏常
加藤光泰[1]
三宅弥太郎[注 1]
テンプレートを表示

間島 氏勝(まじま うじかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名通称は彦太郎。官位兵衛尉(『太閤記』では右兵衛尉)[3]因幡守[4]播磨国福中城主、のち淡路国岩屋城主。姓は間嶋、または真島とも[5]

播磨国大山館主・間島氏常の子として生まれる[6]

天正8年(1580年)頃、播磨に侵攻した羽柴秀吉に臣従した[5][注 2]。後に別所長治織田信長から離反した際、父の氏常は長治に与して三木城に入城したが、氏勝は秀吉方に属したという[4]。『三木戦史』によれば、秀吉軍が三木城を包囲した際、鹿島彦太郎(氏勝)は福原長堯とともに明石街道に布陣している[8]

その後、正確な時期は不明だが、秀吉の命によって福中城を破却された[3]

天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いの後の論功行賞で淡路国岩屋城主に任ぜられた[5]

翌天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いに従軍し、天正14年(1586年)には方広寺大仏殿(京の大仏)の作事奉行を務めた[5]

天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍し[5]、天正18年(1590年)の小田原の役では150人(または100人)を率いた[9]

文禄元年(1592年)の文禄の役では秀吉の後備衆の1人として200人を率いて肥前国名護屋城に駐屯[10][11]、この当時1万石を領していたという[6][注 3]

その後の氏勝の動静については諸説あり、文禄の役から慶長3年(1598年)の間に死去したとも[10][注 4]、文禄4年(1595年)の秀次事件に連座したともいう[12]。また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加担したため没落するが、その後、同族のよしみをもって黒田如水に寄食したという[5][注 5]

逸話

  • 伝説によれば氏勝は弓の名手であったとされ、三木合戦の際、坂を降っていた秀吉軍に福中城にいた氏勝が矢を放つが、その結果城の位置を秀吉に知られてしまい、秀吉軍の攻撃を受けて福中城は落城した。以来この坂を"矢の坂"と呼ばれるようになったという[13]。また、平野八幡神社には天正3年(1575年)8月に氏勝が奉納したという重籐の弓が保管されている[7]

注釈

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI