間島氏勝
From Wikipedia, the free encyclopedia
天正8年(1580年)頃、播磨に侵攻した羽柴秀吉に臣従した[5][注 2]。後に別所長治が織田信長から離反した際、父の氏常は長治に与して三木城に入城したが、氏勝は秀吉方に属したという[4]。『三木戦史』によれば、秀吉軍が三木城を包囲した際、鹿島彦太郎(氏勝)は福原長堯とともに明石街道に布陣している[8]。
その後、正確な時期は不明だが、秀吉の命によって福中城を破却された[3]。
天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いの後の論功行賞で淡路国岩屋城主に任ぜられた[5]。
翌天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いに従軍し、天正14年(1586年)には方広寺大仏殿(京の大仏)の作事奉行を務めた[5]。
天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍し[5]、天正18年(1590年)の小田原の役では150人(または100人)を率いた[9]。
文禄元年(1592年)の文禄の役では秀吉の後備衆の1人として200人を率いて肥前国名護屋城に駐屯[10][11]、この当時1万石を領していたという[6][注 3]。
その後の氏勝の動静については諸説あり、文禄の役から慶長3年(1598年)の間に死去したとも[10][注 4]、文禄4年(1595年)の秀次事件に連座したともいう[12]。また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加担したため没落するが、その後、同族のよしみをもって黒田如水に寄食したという[5][注 5]。