神林淳雄
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| 人物情報 | |
|---|---|
| 生誕 |
1911年3月1日 山形県鶴岡市(旧東田川郡羽黒町) |
| 死没 |
1945年??月??日 沖縄県(沖縄本島) 戦死 |
| 国籍 | 日本 |
| 出身校 | 國學院大學 |
| 学問 | |
| 活動地域 | 日本 |
| 研究分野 | 考古学 |
| 主な業績 | 古墳時代刀剣研究 |
| 主要な作品 | 『土の文化』 |
| 影響を受けた人物 | 鳥居龍蔵・後藤守一 |
| 学会 | 上代文化研究会 |
神林 淳雄(かんばやし あつお、1911年(明治44年)3月1日 - 1945年(昭和20年)4月または7月[1])は、日本の考古学者。山形県出身。東京国立博物館の前身である東京帝室博物館の職員(鑑査官補)として古墳時代の武器に関する先駆的な研究成果を遺したが、太平洋戦争末期に召集され沖縄本島にて戦死した[1]。
1911年(明治44年)、現在の山形県鶴岡市にあたる旧東田川郡羽黒町に生まれる[1]。
上京して國學院大學に入学し、在学中は人類学者の鳥居龍蔵に師事。國學院大學内の学会「上代文化研究会」に参加する[2]。
1934年(昭和9年)に國學院大學を卒業し、東京帝室博物館に就職する[2]。同博物館では鑑査官補となり、鑑査官の後藤守一の下に所属。1938年(昭和13年)から1943年(昭和18年)にかけて、古墳時代の金属製の拵えをもつ刀剣(装飾付大刀など)について、型式学的分類法に基づく詳細な研究を行い、日本考古学会の『考古学雑誌』等に多くの論文を発表した。これらは日本の考古学史における古墳時代刀剣研究の先駆的な業績とされる[2]。
また1943年(昭和18年)には、赤星直忠らと共に神奈川県横浜市の瀬戸ヶ谷古墳の部分的な発掘調査に参加している[3]。
しかし太平洋戦争の戦況が悪化した1944年(昭和19年)に召集され、戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄戦に参戦して34歳で戦死した[1]。戦死時期について、斎藤忠は、日本軍の組織的戦闘がほぼ終息した同年「7月」としているが[1]、宮内庁書陵部・宮内公文書館の所属する旧宮内省大臣官房秘書課『進退録8 昭和20年』には「第580号 帝室博物館出仕神林淳雄戦死ニ付特別昇給ノ件(四月)」との記事があり、沖縄戦初期段階の同年4月時点での死亡を示す資料もある[4]。
戦後、出征の直前まで執筆していた考古学研究の遺稿が発見され、『土の文化』として1959年(昭和34年)に刊行された[2][5]。