岡山県都窪郡清音村(現在の総社市)に神社與平の二男として生まれる。珍しい名字でもある神社(読み:かんじゃ)姓は総社市清音上中島や古地に多い[4]。1895年(明治28年)閑谷黌へ入学し、ここで同級生の大原孫三郎と知り合う。これが後に倉敷紡績へ転職するきっかけとなった[5]。
その後、1898年に旧制岡山県立高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)へ進学した。同校には、清水比庵が同級生として在籍しており、親交があった[6]。その後、第六高等学校へ入学[7]、1905年(明治38年)7月、同高校を卒業し、京都帝国大学法律学科へ入学した[8]。清水比庵とは、11年間同級生(旧制中学5年、旧制高校3年、旧制大学3年)であった。
1908年(明治41年)の京大卒業後、文官高等試験行政科に現役で合格した[9]。当時、ほとんどの合格者が東大生であった。柳吉は、国家公務員として台湾総督府専売局に配属された[9]。そのまま、台湾にとどまり、最終的に台南州内務部長にまで出世する[9]。1921年(大正10年)15年務めた公務員を辞めて、40歳で帰郷し、大原孫三郎が社長を務めていた倉敷紡績へ入社した。同社の子会社として設立された倉敷絹織(現在のクラレ)を山内顕、薬師寺主計と共に創成期の発展を支えた[10]。
その後、柳吉は1939年(昭和14年)5月[11]、58歳で倉敷紡績の第3代社長に就任した。当時、倉敷紡績は創業家である大原財閥家が社長を務めていたが、大原孫三郎の引退にともない旧知の仲であった柳吉が選ばれた。初めて創業家以外が社長となった。とは言うものの、これは後に第4代社長となる大原総一郎への繋ぎの人事であり短期間であった。1941年(昭和16年)1月には、社長を辞任し、大原総一郎が社長に就任した[11]。