神谷傳兵衛 (2代目)
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神谷 傳兵衛(2代目)(かみや でんべい、明治3年10月11日(1870年) - 昭和11年(1936年)10月2日)は、山形県山形市旅籠(現在の山形市旅籠町)出身の実業家。襲名の前の名は神谷 傳蔵(伝蔵とも表記される)。
茨城県牛久市のワイン醸造所のシャトーカミヤの経営者。東京耐火煉瓦株式会社取締役のほか、神谷貿易、神谷醸造の取締役も務め、第四代三河鉄道代表取締役も務めた。
旧姓は小林傳藏。小、中学校を卒業後東京湯島の金原医籍店に勤務(近所でも評判な青年であった)その際、神谷傳兵衛に才能を買われ、金原寅作(当時の社長)も快諾し神谷のワイン作りを手伝う。のちに傳兵衛の婿養子になる[1]。
生誕
明治3年10月11日(1870年)、山形市旅篭町に店舗を構える 榮玉堂(現在の栄玉堂)の次男として生まれた。父は小林二八(にはち)。
青年期
小、中学校を卒業後上京し、東京湯島の金原医籍店に勤務する。
シャトーカミヤ

浅草で神谷バーを開店して成功をおさめた傳兵衛は、この成功によって得た資金を元に念願の葡萄酒づくりを実現させようとした。この時、尽力したのは婿養子の伝蔵だった。子供のなかった傳兵衛は兄・圭介の長女誠子を養女に、そして働き者で研究熱心と評判の高かった小林伝蔵を婿養子として迎えた。伝蔵は結婚式の3日後の1894年(明治27年)9月24日に葡萄栽培と葡萄酒醸造の技術習得を託され渡仏、1897年(明治30年)1月12日に多くの参考書や醸造用具、土の標本などを携えて帰国した。傳兵衛は伝蔵の帰国後すぐ苗木6000本を輸入し東京郊外の下大久保(現在の新宿区大久保・百人町周辺にあたる地域)に試植、順調な苗の生育に日本国内での葡萄栽培に自信を持った。 はじめは傳兵衛の出身地である三河国の方に作ろうとしたが上手くいかず、いろいろ探して茨城県稲敷郡岡田村(現・茨城県牛久市)に土地160haを購入する。 原野を開墾して1898年(明治31年)に神谷葡萄園を開園させた。1901年(明治34年)に仮醸造場を誕生させ、1903年(明治36年)9月には本格的な醸造場のシャトーカミヤ(現在の牛久シャトー)を完成させた。
三河鉄道
4代目社長に就任し、1926年(大正15年)に路線が傳兵衛の故郷の松木島に至ると、功績をたたえて駅名を神谷駅(1949年に松木島駅と改称)と名付けた。傳兵衛死後の1941年(昭和16年)に名古屋鉄道と合併して名鉄三河線となり、さらに名鉄蒲郡線を分離している。神谷駅の鉄筋コンクリート造のモダンな駅舎は、昭和53年(1978年)に老朽化のため取り壊された。2004年(平成16年)の三河線一部廃止に伴い、故郷の松木島を通る区間はなくなった。
死去
昭和11年(1936年)10月20日、66歳で亡くなる。傳兵衛も66歳で亡くなっている。
死後
シャトーの葡萄園は1990年代に残っていた部分はおおかた駐車場等に変わり、極僅かに垣根式栽培を残すのみである(僅かでも残すことはワインの原材料の栽培から瓶詰めまで一貫して生産を行う「シャトー」称号に関わるためと思われる)。また、かつて葡萄園であった土地の一部に「神谷」という地名を付けている。