禄貴人
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初封と昇進
陸氏の生年は不詳だが、誕生日は9月23日 であった。
乾隆25年(1760年)11月14日、陸氏は禄常在に封じられた。 乾隆帝は晩年、「乾隆30年以前の後宮には、南方から献上された女性が数名いた」と述べており、陸氏も南方の官員によって献上された一人であったと考えられる。
乾隆40年(1775年)3月22日、14年間 「常在」の位にあった陸氏は、同じく漢人出身の明常在と共に昇進し、「禄貴人」(陸貴人)となった。
降格と特別な賞賜
乾隆41年(1776年)初頭、後宮には貴人の位に3人の妃嬪がいたが、数か月後には2人に減少していた。 このため、陸氏は乾隆41年(1776年)1月~6月の間に、貴人から「禄常在」に降格 されたと推測される。
しかし、乾隆43年(1778年)7月8日 に、皇帝は禄貴人に誕生日の祝いとして150両を授与。 また、乾隆44年(1779年)5月1日 にも、同じく150両が授与された。
晩年と病気
乾隆48年(1783年)以降、禄貴人は 「気虚痰厥(慢性的な体力低下と気絶を伴う病)」 により、意識を失い、極度の虚弱状態に陥った。 さらに 「痿痺(神経疾患による手足の麻痺)」 に長年苦しみ、手足の自由が利かず、激しい痛みに悩まされる、発汗が異常に多い、風邪をひきやすい、経脈の栄養が滞る(血行不良による衰弱)などの症状を抱えていた。
乾隆54年(1789年)閏5月5日、陸貴人は突然 「脈が停止し、意識不明、呼吸困難」 に陥ったため、通関散(救急用の薬)、牛黄清心丸(脳卒中や意識障害用の薬)、清金錠(肺の病を鎮める薬)、星香化痰湯(気道の痰を取り除く薬)、十香返魂丹(強力な蘇生薬)などの薬で緊急治療が行われたが、効果なく、同日丑時(午前1時~3時)に薨去 した。
葬儀は「貴人」の格式で行われ、
貝勒(王族の高位)以下、子爵以上の貴族、貝勒福晋(貴族の正妻)以下、子爵の妻以上の女性貴族が集まって弔問した。
埋葬
乾隆56年(1791年)12月12日、陸貴人の棺が清東陵へ移送された。
12月17日、翌日の埋葬に先立ち、宮廷で正式な祭礼が行われた。
12月18日、陸貴人の棺は、順貴人の棺と共に清東陵の裕陵妃園寢に埋葬された。
家族
禄貴人の家族は、普段は非常に慎ましやかに暮らしていた。 乾隆43年(1778年)、乾隆帝は大臣・舒文に次のように指示した。
「陸常在に親族がいるかどうか調べ、適切に対応せよ。彼らが行き場を失うことがないようにする一方で、目立って問題を引き起こすことも避けるように」。
舒文は蘇州に戻って調査を行い、以下のように奏上した。
「陸常在には現在、実母の繆氏が存命であり、すでに嫁いだ長女と外甥娘3人とともに暮らしております。その他に親族はおらず、普段は非常に静かに過ごしております」。
また舒文は乾隆帝に次のように約束した。
「将来、乾隆45年(1780年)に皇帝が南巡された際も、禄常在の家族が道中に出迎えたり、恩恵を乞うような行動をしないよう、厳重に管理いたします」。
その後、乾隆54年(1789年)10月9日、禄貴人の家族は正式に旗人(満洲の八旗制度に組み入れられる)となった。
禄貴人陸氏の家族構成
- 母:繆氏
- 姉:元・披甲人(満洲正規兵)周森の妻
- 外甥(姉の息子):周発(披甲人)、周煜(披甲人)
- 外甥の子(姉の孫):周寧河(披甲人)、周長河(幼丁:若年の兵士)、周太河(幼丁)
- 外甥(姉の息子):周発(披甲人)、周煜(披甲人)
- 姉:元・披甲人(満洲正規兵)周森の妻
伝記資料
- 『清史稿』
- 『内務府奏案』