過激な攘夷論者で、文久2年(1862年)に、久坂玄瑞、中谷正亮とともに長州藩を脱藩。航海遠略策を唱え、藩内で勢威を増していた長井雅楽の暗殺をたくらむが、未遂に終わった。同年には、高杉晋作らとともに御楯組を組織して、英国公使館焼き討ち事件に加わる。
江戸で討幕を画策するも、赤坂の刈谷藩邸内の倉田珪太郎宅で一橋家家臣・脇坂又三郎、刈谷藩士遠藤木工、浜田篤蔵、村上其太郎らと密議中に、古河藩主・土井利則の捕吏の襲撃を受け、戦うも負傷して自害した。
墓所は東京都世田谷区の松陰神社、山口県美祢市美東町常福寺。
明治維新の後にその功績が評価され、明治31年(1898年)従四位を追贈された[1]。