福地健治
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来歴
1948年7月24日、プロデビュー戦で判定勝利を収めた。1950年12月15日、第8回東日本フェザー級新人王トーナメント決勝戦で金子繁治(笹崎)に4R判定負けを喫し、1955年4月19日には大阪府立体育館で松山照雄(大星)の持つ日本ウェルター級王座に挑戦したが、判定負けを喫した。
- 日本王座獲得
1956年2月28日、大阪府立体育館で松山照雄に再挑戦し、判定勝利により日本ウェルター級王座を獲得した。同年10月3日、後楽園ジムで松山を迎えての初防衛戦に7RKO負けを喫し、王座を失った。
1957年8月2日、大阪府立体育館で松山に8RKO勝利を収め、日本ウェルター級王座を奪い返した。
- 東洋王座獲得
同1957年11月20日、5年近く王座に君臨したソムデス・ヨントラキット(タイ)に判定勝利を収め、OBF東洋ウェルター級王座を獲得した。この試合は年間表彰で、1957年度の年間最高試合賞を受けた。
1958年6月10日、後楽園ジムで沢田二郎(新和)に判定負けを喫し、日本王座を失った。
同1958年10月8日、沢田を迎えて東洋王座の初防衛戦を行い、判定で引き分けて王座を守った。1959年5月12日、スティーブ・トニー(フィリピン)に初回KO勝利を収め、同王座の2度目の防衛に成功し、同年11月5日、ムアンチャイ・TRO(タイ/1969年にジャガー柿沢と対戦したムアンチャイ・モンクトペッチと同じ選手)を迎えての3度目の防衛戦では判定で引き分けて同王座を守った。1961年1月2日、ムアンチャイ・TROとの再戦に判定勝利を収め、同王座の4度目の防衛に成功したが、同年12月16日、フィル・ラバロ(フィリピン)を迎えての5度目の防衛戦で大差の判定負けを喫し、この東洋王座を失った。
1962年7月2日、後楽園ジムでラバロと再戦。4Rに3度のダウンを喫して朦朧としながらも反撃を続け[2]、同じ4Rにダウンを奪い返す反撃で最終的に判定勝利を収め[1]、OBF東洋ウェルター級王座を再獲得した。しかしこの4度目の戴冠試合を最後に、1963年2月26日に同王座を返上して現役引退した。
引退後は一時期、帝拳ジムのトレーナーを務め鈴木信行を指導。1989年9月24日、病気により死去した。
獲得タイトル
- 第10代日本ウェルター級王座(防衛0)
- 第12代日本ウェルター級王座(防衛0)
- 第2代OBF東洋ウェルター級王座(防衛4)
- 第4代OBF東洋ウェルター級王座(防衛0)
- 受賞歴
- プロ・アマチュア年間表彰
- 1957年度プロ部門殊勲賞
- 1957年度プロ部門年間最高試合賞(OBF東洋ウェルター級タイトルマッチ)
- 1959年度プロ部門敢闘賞