福田力之助
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東京府南葛飾郡亀戸町(現東京都江東区亀戸)出身[1]。家は金物屋だったがそれが潰れ、商家の小僧となり、青山師範学校卒業、東京市砂町小学校訓導となった後、1922年(大正11年)4月中央大学法律科専門部卒業、1925年(大正14年)12月司法官試験合格、同月高等試験司法科合格、1926年(大正15年)4月司法官試補として東京地方裁判所所属、1927年(昭和2年)12月仙台地方裁判所予備判事転任、福島地方裁判所に次いで1928年(昭和3年)10月山形地方裁判所判事転任、同鶴岡支部所属[1][2][3]。
1931年(昭和6年)、山形地裁に転任してきた滝内礼作に引き込まれて研究会に加わり、日本共産党のために自宅を提供したことが司法官赤化事件として1932年(昭和7年)3月23日、治安維持法違反で福田を検挙、彼は転向した[4][5][6]。1934年(昭和9年)2月10日、東京地裁で懲役3年の実刑判決[7](求刑:懲役4年[8])。同年6月30日の控訴審では懲役2年の実刑判決[9]。同年11月1日、大審院は上告棄却、確定[10]。これにより従六位を失位[11]、大礼記念章(昭和)を褫奪された[12]。
豊多摩刑務所に服役、その後は札幌の鈴木義男法律事務所で訴訟事務を担当、戦後は弁護士として松川事件などに関わり、日本民主法律家協会理事を務めた[3]。
栄典
脚注
- 1 2 3 帝国法曹大観編纂会 編『帝国法曹大観 改訂第3版』帝国法曹大観編纂会、1929年、1031頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1445778/1/567?page=left。2025年2月11日閲覧。
- ↑ 「司法部内赤化事件 魔道に墜ちた少壮判事 上層階級を目的に党員獲得運動 札幌の滝内礼作判事」『台南新報』台南活版社、1933年11月29日、夕刊、2頁。2025年2月11日閲覧。
- 1 2 “事務局たより” (PDF). 北大生・宮澤弘幸「スパイ冤罪事件」の真相を広める会. p. 4 (2018年4月1日). 2025年2月11日閲覧。
- ↑ 「滝内礼作」『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ。https://kotobank.jp/word/%E6%BB%9D%E5%86%85%E7%A4%BC%E4%BD%9C。コトバンクより2025年2月11日閲覧。
- ↑ 「又々司法官三名の赤化事件発覚」『伯剌西爾時報』伯剌西爾時報社、1933年12月9日、1頁。2025年2月11日閲覧。
- ↑ 「更に司法部内から赤化判事三人出づ 長崎、山形、札幌の地方裁判所で相次いで一斉検挙さる」『京城日報』京城日報社、1933年11月30日、夕刊、7頁。2025年2月11日閲覧。
- ↑ 「赤化司法官九名に懲役刑の言渡し」『ハワイ報知』布哇報知社、1934年2月10日、1頁。2025年2月11日閲覧。
- ↑ 「赤化司法官に峻厳なる求刑 不忠正に死に値すと論告 尾崎判事は十年」『新世界日日新聞』1934年2月10日、3頁。2025年2月11日閲覧。
- ↑ 「赤化司法官懲役六年 控訴審の判決」『ハワイ報知』布哇報知社、1934年6月30日、2頁。2025年2月11日閲覧。
- ↑ 『大審院判決全集 第2輯 第13號-第24號(昭和10年1-12月)』法律新報社、1935年、679頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1445597/1/58?page=left。2025年2月11日閲覧。
- 1 2 「彙報 官庁事項 失位」『官報』大蔵省印刷局、1934年12月15日、449頁。2025年2月11日閲覧。
- ↑ 「彙報 官庁事項 勲等功級及従軍記章等褫奪」『官報』大蔵省印刷局、1935年6月26日、321頁。2025年2月11日閲覧。
- ↑ “叙任及辞令”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 559. (1928年3月22日). https://dl.ndl.go.jp/pid/2956828/1/4?page=right 2025年2月11日閲覧。
- ↑ “叙任及辞令”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 706. (1930年3月26日). https://dl.ndl.go.jp/pid/2957436/1/25?page=right 2025年2月11日閲覧。
- ↑ “叙任及辞令”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 719. (1932年4月25日). https://dl.ndl.go.jp/pid/2958065/1/4?page=left 2025年2月11日閲覧。