福頼氏 From Wikipedia, the free encyclopedia 本姓 出自不詳種別 武家出身地 伯耆国汗入郡宇多河荘か主な根拠地 西伯耆福頼氏 本姓 出自不詳種別 武家出身地 伯耆国汗入郡宇多河荘か主な根拠地 西伯耆著名な人物 福頼元秀凡例 / Category:日本の氏族 福頼氏(ふくよりし)は、伯耆国の国人で、室町時代から安土桃山時代、西伯耆を中心に勢力を誇った[注釈 1]。現在も鳥取県西部から島根県東部に地名[注釈 2]や、姓が残る。 室町時代 伯耆国汗入郡宇多河荘(現在の米子市淀江町福頼付近)を本拠とすると推定される一族で、室町時代には、守護山名氏の被官として、東伯耆の小鴨氏らと並ぶ勢力を有していた。戦国時代に入ると多くの伯耆衆と同様、伯耆に侵攻してきた尼子氏に本拠を追われるが、毛利氏の後ろ盾を得て奪回する。その後も毛利氏の傘下となり、安土桃山時代まで名前が見える。 1422年(応永29年)、守護山名氏之の被官として福頼上野守沙弥の名が見えるのが所見である[1]。『大舘常興書札抄』では、伯耆衆の中でも福願(頼)氏や小鴨氏ら6氏を、その他多数の国人より高い称号で扱うよう記している。 戦国時代 16世紀前葉の尼子経久の伯耆侵攻(大永の五月崩れ)に際して、福頼元秀[注釈 3]が応戦するが[2]、南条氏、小鴨氏ら他の国人と同じく本拠地を追われる[3]。永禄年間にはじまる毛利氏の伯耆侵攻にあたっては、行松氏や日野氏らと同様、毛利氏と結び奪回したと見られる。16世紀半ば過ぎには、元秀が尼子軍の攻撃から米子城を守ったとされ[3]、1580年(天正8年)には、吉川元春から東伯耆1400石を与えられる[4]。 安土桃山時代 1585年(天正13年)、毛利氏が四国攻めに出陣している隙を突いて、南条元続が元秀の香原山城を攻め落とす[注釈 4]。吉川元春は弟元康に命じ、元秀とともに香原山城を奪回したという[3][5]。戦後、毛利輝元は福頼氏の功績を称える書状を送っている。 豊臣秀吉の朝鮮出兵が開始されると、元秀は吉川広家などの諸大名の軍門下として、次男の吉蔵と共に渡海し、蔚山城での籠城戦などで戦功を挙げたが[6]、吉蔵は「家中七人」と呼ばれた家臣団や「道具類」と呼ばれた備品をすべて失い、元秀も文禄の役で負傷するなど、激戦をくぐり抜けた[7][8]。 脚注 注釈 [脚注の使い方] ↑ 『御巡検様御廻手鏡』には、福頼村(米子市淀江町)、宮内村(西伯郡大山町宮内)・富長村(同、富長)の城主を福頼左衛門尉と記す。 ↑ 米子市淀江町のほか、西伯郡南部町、島根県仁多郡奥出雲町など。 ↑ 生没年不詳。官位は治部大輔、左衛門尉、左衛門督。活動年数は61年以上となる。後裔という松原氏によると「淀江町西尾原の戦いで討たれ、(同)福頼と(同)福岡上淀に墓がある」と伝える。 ↑ 『陰徳太平記』では、攻城軍(南条方)は行松四郎次郎(正盛の次男)、守備側(毛利方)は福頼藤兵衛とし、『伯耆民談記』では落城時、福頼元秀は毛利氏に従軍しており、留守居は福頼某とする。藤兵衛については、米子市淀江町北尾に墓と伝える場所がある。 出典 [脚注の使い方] ↑ 『前下野守・福頼上野守連署下知状写』 ↑ 『三輪神社沿革誌』 1 2 3 『陰徳太平記』 ↑ 『萩藩閥閲録』 ↑ 『伯耆民談記』 ↑ https://shiro-tan.jp/history-h-hukuyori-motohide.html ↑ 鳥取県立博物館編集発行『鳥取県立博物館ニュースNO.38』令和6年9月25日発行、p.5. ↑ https://shiro-tan.jp/history-hu-hukuyori-kichizou.html 参考文献 『淀江町誌』 『新修米子市史 第二巻 通史編 原始・古代・中世』 『鳥取県史』 Related Articles