秋庭又四郎信村

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生誕 1223年頃(推定)[1]
改名 又四郎、又次郎[2]
氏族 秋庭氏(前期秋庭氏)
 
秋庭信村
秋庭氏が拠点とした備中松山城(現存天守)

秋庭氏の家紋:丸に三引き
時代 鎌倉時代
生誕 1223年頃(推定)[1]
改名 又四郎、又次郎[2]
氏族 秋庭氏(前期秋庭氏)
父母 父:秋庭重信
秋庭重連
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秋庭 信村(あきば のぶむら)は、鎌倉時代中期の武将。備中松山城主(第2代)。秋庭重信の嫡子。通称は又四郎(または又次郎)。宝治合戦(宝治の乱)で戦功がありながらも討死した。なお、幕府の公式記録である『吾妻鏡』や『安藤記』によれば幕府方で参戦したとされるが、討伐された三浦方で参戦したとの異説もある。

宝治の乱における動向

前期秋庭氏の祖・秋庭重信の長男として誕生。秋庭氏は承久の乱の軍功により備中国有漢郷の地頭職を得ていた。

幕府の公式記録である『吾妻鏡』(巻三十七、宝治元年(1247年)6月5日条)によれば、三浦勢が立てこもる法華堂への攻撃に加わり、最前線である東門付近で戦功を挙げたが、激戦の最中に討死したとされる[2][3]

『宝妙寺史伝』等による異説

一方、秋庭氏の菩提寺に伝わる『宝妙寺史伝』では、異なる伝承が記されている。

  • 三浦方としての参戦:秋庭家は三浦一族の分家であり、信村は血縁の義理を立てて三浦方(反幕府側)として参戦したとされる[1]。当時、鎌倉で大番役(警備勤務)を務めていた信村は、三浦泰村らと共に法華堂に立てこもり、北条勢を相手に奮戦した末、25歳前後で討死したという[1][4]

その後

信村の死後、鎌倉には若き妻と幼少の三世・秋庭重連が残された[1]。重連は後に祖父・重信によって有漢へ迎えられ、秋庭氏の家督を継承したとされる[1]

系譜

脚注

参考文献

関連項目

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