秋庭又四郎信村
From Wikipedia, the free encyclopedia
宝治の乱における動向
前期秋庭氏の祖・秋庭重信の長男として誕生。秋庭氏は承久の乱の軍功により備中国有漢郷の地頭職を得ていた。
幕府の公式記録である『吾妻鏡』(巻三十七、宝治元年(1247年)6月5日条)によれば、三浦勢が立てこもる法華堂への攻撃に加わり、最前線である東門付近で戦功を挙げたが、激戦の最中に討死したとされる[2][3]。
『宝妙寺史伝』等による異説
一方、秋庭氏の菩提寺に伝わる『宝妙寺史伝』では、異なる伝承が記されている。
- 三浦方としての参戦:秋庭家は三浦一族の分家であり、信村は血縁の義理を立てて三浦方(反幕府側)として参戦したとされる[1]。当時、鎌倉で大番役(警備勤務)を務めていた信村は、三浦泰村らと共に法華堂に立てこもり、北条勢を相手に奮戦した末、25歳前後で討死したという[1][4]。
その後
信村の死後、鎌倉には若き妻と幼少の三世・秋庭重連が残された[1]。重連は後に祖父・重信によって有漢へ迎えられ、秋庭氏の家督を継承したとされる[1]。