秋庭重連
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小松山への築城継承
前期秋庭氏3代当主。2代当主・秋庭信村の子として誕生。父・信村が宝治合戦(1247年)において鎌倉で討死した際、重連は幼少であったとされるが、後に家督を継承したとされる[1]。
初代秋庭重信が大松山城を築城した臥牛山は、北から大松山、天神の丸、小松山、前山の四峰からなる。 [2]。山頂に土がある大松山の工事は順調であったが、全山が堅い花崗岩で形成される小松山(現存天守のある峰)の築城は困難を極めた[1]。
第3代となった重連は、祖父・重信の遺志を継ぎ、未踏の岩石地帯であった小松山への築城を目指し心血を注いだと伝えられる[1]。
伝承による事績
一族の菩提寺に伝わる『宝妙寺史伝』などの在地伝承によれば、重連に関して以下のような具体的なエピソードが残されている[1]。
築城にあたっては、叔父である西阿の助言を広く取り入れたとされる。特に物資の輸送経路について、小高下や内山下方から運ぶのが最良であるとの進言に従い、現在の頼久寺付近に仮の馆を構え、物資集積の拠点としたという。当時の高梁川は現在の町並付近を流れており、川湊を利用した物資搬入が行われたと伝えられる。また、文永元年(1264年)秋、上方(京都)から来訪した修験の遊行僧を迎え入れ、頼久寺、薬師院、智道寺の3カ所に石仏を彫り立てさせたとされる。