秋庭太郎

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秋庭 太郎(あきば たろう、1907年5月19日 - 1985年3月17日[1])は、日本演劇学者。永井荷風研究で著名である。

東京府[2]東京市深川区生まれ[3]。1930年東洋大学支那哲学文学科卒業[4]。同大学在学中[4]1929年に江戸時代から明治時代にかけての文学や演劇、風俗の資料収集し『軟文学研究』を刊行[1]。1937年に『東都明治演劇史』を刊行後、応召。陸軍少佐として従軍[2]し、中国および南方を転戦する。戦時中、特にニューギニアでの体験談をまとめた『ニューギニアの戦い: 秋庭太郎遺稿』が秋庭の死後、鈴木元明監修によって発刊されており、奇跡的な生還だったとのこと。戦後復員し、1946年から日本大学図書館に勤務[2]、館長を務めた。1957年に『日本新劇史』が昭和31年度(1956年度)第7回芸能選奨の演劇部門を受賞[1] [5]。のち商学部で教授を務める。

日本近現代演劇史のほか永井荷風研究に優れた業績を挙げ、1977年、『永井荷風傳』で読売文学賞受賞[6]

1985年3月17日肺癌のため文京区の東京都立駒込病院で死去。77歳没[7]

永井荷風と僧籍

永井荷風に心酔し、荷風研究は秋庭にとって代表的なテーマとなった。

『永井荷風傳』の編纂にあたっては杉野喜靖から多数の資料提供を受けていた。また、杉野の仲介で荷風と関連ある人物と片っ端から面接を行っていたという。この時に秋庭と初対面した廣瀬千香は「まことに礼儀正しく軽口などはきかず、かといって厳しすぎる窮屈士でもなかった」と自身の著書の中で回想している[8]

秋庭の永井荷風への惚れ込み具合は非常に強く、「荷風に倣って自身も生涯独身を貫き、僧籍に入った」と紅野敏郎が著書『「學鐙」を読む・続』で紹介している。しかし、秋庭自身は荷風と面識を得ることは容易だったはずなのに、本人とは直接会おうとせず、荷風の葬儀も荷風宅には赴いたものの、近隣人々と葬列を見守っただけであったという[8]

「妻なく子なく家もなく」が口癖で、僧籍に入ったのは1979年のインタビューで19年前と語られている。法名は光信。僧侶生活に入るのが青年時代からの夢で、「浄土宗本山で修行のあと、堂守りなどして一人静かにすごしたい」と語っていた[9]。しかし、宮岸泰治が1983年に訪ねて行ったときには、年齢的に朝夕の勤めを行う自信がなく、結局普通の部屋を借りての起居している旨を語っていたとのこと[10]

逸話

著書

脚注

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