秋庭重明
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松山城の完成と執事職
重明の祖父・秋庭義継の代にあたる嘉暦2年(1327年)、臥牛山上に大松山城・小松山城が完成し、備中の要害となった[1]。南北朝の動乱が始まると、秋庭氏は一貫して足利氏(北朝方)に従った[2]。 観応4年(1353年)、足利尊氏が高師泰を備中守護に任命すると、重明は松山城執事(参謀役)として実務を担い、守護を補佐した[1]。
守護・高師秀の追放と松山城奪還
南北朝の動乱期、備中松山城には足利氏の執事・高師泰の子である高師秀が守護として入城していた。しかし、師秀は「天性庸劣(愚鈍)」であり、不法な挙動が多く、秋庭氏がこれを諫言しても聞き入れず、かえって秋庭氏を殺害しようとする予兆があったとされる[2]。
当時、秋庭氏の当主信盛と重明の代においては、師秀の父・高師泰に厚く重用されていた。師泰が没した際には、当時わずか2歳であった師秀を懐に入れて抱き、京の田舎に潜伏してその命を救い、育て上げたという深い繋がりがあった。しかし、成長した師秀の不法な振る舞いに憤った重明は、ついに師秀を見限り、山名氏と通じて兵を動かし、師秀を城から追放して松山城を奪還した[2]。
細川頼之との絆と備中守護就任
その後、高氏が没落し細川氏が台頭するなかで、秋庭氏は時の有力者・細川頼之の厚い信任を得ることとなる。資料によれば、頼之は松山城を国の要衝として重視し、重明に命じて城内に多量の兵糧を蓄えさせたという。重明は細川京兆家(細川氏本家)の「御内(身内)」にも勝る信頼を受け、幕府の官僚機構に深く組み込まれていった。これにより、重明は正式に備中守護代として松山城主に復帰。以後、頼重、頼次、元明、元重と続く「後期秋庭氏」の盤石な地位が確立されることとなった[2]。 また、重明は将軍家(足利義詮)の御所造営などの大工事を完成させたほか、京都の治安維持においても功績を挙げた。これらの功績により、重明は一地方の国人から、備中地区の警察・軍事権を握る備中守護(あるいは守護代)に任じられた[2]。
宗教・建築への貢献
重明は武官としてのみならず、宗教行政や建築造営においても大きな足跡を残した。
- 吉備津神社の造営:吉備津神社の社務代を長らく務めた。正平12年(1357年)6月27日、奉行として同神社の北随身門(北門)を建立した。この門は規矩端正な様式で知られ、明治44年(1911年)に「特別保護建築物」(現・重要文化財)に指定されている[3]。
- 宝妙寺の中興:故郷の有漢郷にある浄池山宝妙寺(真言宗)の再興に尽力した。延文5年(1360年)、細川頼之との縁から将軍家御用の大工・三郎兵衛宗弘を京都から招き、本堂(大堂)を再建した[1]。当時は十三もの寺坊を抱える大伽藍であり、重明が寄進した寺領は後代の毛利輝元による検地でも安堵されている。
晩年と入寂
応永11年(1404年)に没した。法名は覚阿大禅定門。墓所は岡山県高梁市有漢町の医王堂境内にあり、子・頼重や孫・頼次と並んで、後期秋庭氏の系譜を示す五輪塔が建立されている[4]。