秋庭頼重

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生誕 不詳
死没 応永21年8月14日1414年
改名 八郎、備中守
 
秋庭 頼重
秋庭氏が拠点とした備中松山城(現存天守)

秋庭氏の家紋:丸に三引き
時代 南北朝時代
生誕 不詳
死没 応永21年8月14日1414年
改名 八郎、備中守
戒名 覚成大禅定門
墓所 岡山県高梁市有漢町医王堂境内
官位 備中守
主君 細川氏足利義詮
氏族 秋庭氏(後期秋庭氏)
父母 父:秋庭重明
秋庭頼次
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秋庭 頼重(あきば よりしげ)は、南北朝時代武将備中松山城主。後期秋庭氏第2代当主。

備中守護代と社務代としての活動

後期秋庭氏の祖・秋庭重明の子として誕生。通称は八郎。

観応3年(1352年)8月21日付の足利義詮の御判御教書において、新見荘の押領を停止させるよう「秋庭備中守」に命じられており、この時期には備中守護代として実務を担っていたとされる[1]

また、頼重は吉備津神社社務代を務めていたことでも知られる[2]。社務代とは、神領の政務を掌る「庁在所」において実務の最高責任者である「社務」を代行する要職である。足利氏の治世初期においては、松田将監盛朝(正平年間)や、頼重の父である秋庭重明(正平、延文年間)らがこの職を歴任しており、頼重も父の跡を継いで、細川下総守頼重(応永年間)や石川掃部介久徳らと共に、神領の政務を総括する重責を担った[3]

晩年と入寂

応永21年(1414年)8月14日に没した。法号は覚成大禅定門。墓所は岡山県高梁市有漢町の医王堂境内にあり、父・重明や子・頼次と並んで古式の五輪塔が現存している[3]

系譜

脚注

関連史料

関連項目

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