秋庭頼重
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備中守護代と社務代としての活動
後期秋庭氏の祖・秋庭重明の子として誕生。通称は八郎。
観応3年(1352年)8月21日付の足利義詮の御判御教書において、新見荘の押領を停止させるよう「秋庭備中守」に命じられており、この時期には備中守護代として実務を担っていたとされる[1]。
また、頼重は吉備津神社の社務代を務めていたことでも知られる[2]。社務代とは、神領の政務を掌る「庁在所」において実務の最高責任者である「社務」を代行する要職である。足利氏の治世初期においては、松田将監盛朝(正平年間)や、頼重の父である秋庭重明(正平、延文年間)らがこの職を歴任しており、頼重も父の跡を継いで、細川下総守頼重(応永年間)や石川掃部介久徳らと共に、神領の政務を総括する重責を担った[3]。
晩年と入寂
応永21年(1414年)8月14日に没した。法号は覚成大禅定門。墓所は岡山県高梁市有漢町の医王堂境内にあり、父・重明や子・頼次と並んで古式の五輪塔が現存している[3]。