秋田城介
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鎮秋田城国司
平安時代の出羽城介
平安時代中期以降の有職故実を記した書によれば、まず出羽介を通常の除目で任じ、その後に臨時の宣旨を下して出羽城介に任命した。出羽城介に対しては、城介任命とほぼ同日に秋田城務についても別に宣旨を下して命じた。城介任官は外記宣旨、城務に関しては弁官宣旨なので、同じ日に二途異なる機関を経由して宣旨が下されたことになる[3]。
赴任に際しては、国守である受領と同じく天皇の前に召され禄を与えられた。陸奥国における鎮守府将軍と同じく、正式には受領ではないが、職権待遇は受領に準ずる特別な地位である[4]。
9世紀後半から10世紀にかけては、元慶の乱(878年)をはじめとして蝦夷の反乱、衝突など軍事的危機が出羽国方面で頻繁に起こり、秋田城を拠点にした軍勢が対応に追われた。出羽城介は鎮守府将軍と並ぶ北方防衛の担任者として重責を担った[5]。また秋田城介を経て鎮守府将軍に任命されるという武官のルートも出来た。
陸奥国で安倍頼良が台頭したとき、陸奥守藤原登任は、桓武平氏繁盛流大掾氏一族である出羽城介大掾繁茂(繁成/重衛)とともに頼良を攻めた。この結果生じたのが永承6年(1051年)11月の鬼切部の戦いで、登任・繁茂らは大敗した。この後、出羽国では出羽城介が任官されなくなった。一方、秋田城介に任じられた繁茂の子孫は、城氏(越後平氏)と称して、一族の奥山氏とともに越後に土着した。
康平4年(1062年)の前九年の役の最終局面では、出羽清原氏が源頼義の軍に加わって主戦力となったが、その指揮官の名字には、清原氏の本拠とされる山北とともに、秋田郡周辺の地名が見え、出羽城介廃止の影響が見てとれる[6]。
鎌倉時代の秋田城介
その後の秋田城介
建武の新政では元弘3年(1333年)8月14日に葉室光顕が出羽守との兼任で秋田城介に任命された[8]。前年に鎌倉幕府によって出羽国に流刑されていた葉室は、3年後の延元元年(1336年)5月21日に任地で殺された[9]。
室町期には秋田周辺に勢力をはった安東氏が秋田城介を名乗った。
1575年(天正3年)、織田信長の嫡男、織田信忠が秋田城介に補任された。信長の全国統一に向けた戦略の一環だろうと見られている。豊臣秀吉の治世下の1589年(天正17年)、安東氏の後裔、安東実季は秋田城介を称するとともに秋田氏を名乗った(秋田の氏は秋田城介に由来する)。秋田氏は、関ヶ原の戦い後に常陸へ転封されたため秋田から生駒へ改氏したが、その後、秋田へ復氏し陸奥三春へ移されて明治維新に至った。
出羽城介・秋田城介に任官した人物
「某」とあるのは、史料に名のみあって姓が不明なもの。
出羽城介
- 源嘉生 - 天慶2年(939年)免
- 某保利 - 天慶2年(939年)任
- 平斉章? - 天暦元年(947年)任
- 某実忠 - 康保4年(967年)
- 平兼忠 - 天元3年(980年)任
- 平群利方 - 永観3年(985年)任
- 某信親(源信親?) - 長徳元年(995年)
- 某奉好(平奉良?) - 長和4年(1015年)
- 源頼範 - 11世紀
- 大掾繁茂(繁成/重衛) - 永承6年(1051年)
秋田城介
- 安達景盛 - 建保6年(1218年)3月6日任
- 安達義景 - 嘉禄3年(1227年)11月29日任
- 安達泰盛 - 建長6年(1254年)12月任 - 弘安5年(1282年)
- 安達宗景 - 弘安5年(1282年)10月16日任
- 安達時顕 - 嘉元元年(1303年)頃
- 安達高景 - 嘉暦元年(1326年)頃
- 葉室光顕 - 元弘3年(1333年)8月14日任 - 延元元年(1336年)5月21日死(『公卿補任』)
- 源泰長 - 正平5年(1350年)頃
- 織田信忠 - 天正3年(1575年)任