秘瓊
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慶州刺史の秘弘遇の子として生まれ、武勇があった。後唐の清泰2年(935年)、董温琪が成徳軍節度使となると、秘瓊は牙内指揮使に抜擢されて、その腹心となった。董温琪が契丹に捕らえられると、秘瓊は董温琪の家族を殺害し、その遺体を積み重ねてひとまとめに埋葬した。董温琪が在任中に蓄えた巨万の銭貨を秘瓊は全て車で運び出して、自分の家に隠し、成徳軍節度留後を自称した[2][3]。
天福元年(936年)、後晋の高祖石敬瑭が即位すると、安重栄を成徳軍節度使として鎮州に派遣し、秘瓊を斉州防禦使に任じた。このとき安重栄が契丹の趙思温を同行し、その軍兵の数は多かったので、秘瓊は命令を拒否できなかった。ほどなく秘瓊は財産を袋に詰めて、興唐府を経由して斉州に赴任しようとした。先だって魏博節度使の范延光が反乱を計画し、牙将の范鄴に信書を持たせて秘瓊のもとに派遣したが、秘瓊は返答しなかった。范鄴が帰還して、そのことを報告すると、范延光は深く恨んだ。天福2年(937年)、范延光は秘瓊が興唐府の境を過ぎたと聞くと、ひそかに精鋭の騎兵を派遣して夏津県で秘瓊を殺害し、その家族を滅ぼし、その財産を奪った[4][5]。