大治2年(1127年)の「紀伊国在庁官人等解案」には「三上野院司秦宿禰」が署名しており、守利その人か近親者と考えられる[2]。
久安元年(1145年)11月1日付の「秦宿禰守利私領売渡状案」によると、散位・秦守利は国衙への課役負担に苦しみ、三上院(三上野院とも)内の12郷(吉礼・安原・那口・小勢田・本渡・多田・且来・小野田・坂井・岡田・重禰・大野)を僧侶の湛慶(安芸君、源顕康の子で天台座主となった公顕の舎弟))に譲っている。この12郷は湛慶によって開発され、願成寺が創建され、後に美福門院藤原得子御願の歓喜光院に寄進されて三上荘として立荘されたという。しかし、三上荘成立に関する文書には、鎌倉幕府成立後にしか見えるはずのない「地頭職」の語が見えることから、鎌倉時代後期に願成寺と西畑村の境界争いが発生した際に偽造された文書である可能性がある[2]。
『吾妻鏡』建久元年(1190年)5月29日条には「八条院領紀伊国三上荘」と見え、守利の子孫である御随身左近衛府生・秦兼平が在地の有力者として荘園の管理を行っていた。しかし、関東から定補された豊島有経が当地の地頭となると、兼平は「三上荘は秦氏相伝の地である」と鎌倉幕府に訴えるも、結果的に有経からその曾孫・豊島景村まで4代に渡って地頭を務めている。また、建久2年(1191年)には御随身左近衛府生・秦兼峯が三上荘に関わる人物として見え、兼平の子である[3][4]。