三上氏 (地下家)

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本姓 秦氏
種別 地下家
出身地 不明
三上氏
(家紋)
本姓 秦氏
家祖 三上長用
種別 地下家
出身地 不明
主な根拠地 山城国
著名な人物 三上景文
凡例 / Category:日本の氏族

三上氏(みかみし)は、平安時代から江戸時代にかけての武家

地下家として近衛府下北面官人となっている。

三上景文が編纂した『地下家伝』によると、寛平3年(892年)2月7日に左将曹に任じられた秦長用が祖とされる。長用以降の

までは「右従長用二十二世之間依燒失任叙日不知」とあり、人名と役職のみが記されている[1]

兼任の子の正五位下右将監・三上武広以降は系譜と経歴が詳細に記されており、

と続いた。 一方、武重から

と続く庶流や、武重の養子(河端景慶の子)・三上武景から

と続き代々下北面に仕えた庶流や、さらに武景の養子(白井資則の子)・三上景康から

と続き代々下北面に仕えた庶流もいる[2]

別説として、下橋敬長が編纂した『地下官人家伝』によると、中村一氏の先祖は代々近衛府に仕え、「近衛番長」という役職を務めてきた家柄であり、紀伊国名草郡三上荘を領して三上氏を名乗ったという。そして、祖先は忌寸という氏族である。その子孫である三上右衛門府生武文は、後醍醐天皇の時代に朝廷に仕え、皇子である尊良親王に従った。しかし、摂津国の大物浦において自害した。その子孫である左近将監武教は、摂津国武庫郡兵庫に住み、以後も子孫は代々近衛番長の職を務めた。さらに7代後の越前守武氏も兵庫に住み、その子として中村一氏が生まれた。この一氏は中村一政の猶子となり、天正年間に位階は従四位下に叙せられ、式部少輔に任じられ、和泉国岸和田城主となった。『地下家伝』にも「一氏」の名前が見え、従四位下・式部少輔に叙任されたことは記されているものの「武一男」とも記されており『地下官人家伝』の記述とは一致しない。ただし、「一氏」の次男・三上建益の妻は中村出雲守亀助の娘とされる[3]

三上荘があった現在の和歌山県海南市には、平安時代中期の人物である左近衛府生散位・秦宿禰守利の子孫を称する間藤家が在住している。守利は三上荘の有力な土豪であり、願成寺は守利が自身の所領を寄進した寺であった[4][5]。守利の子孫と見られる人物として、『吾妻鏡文治6年(1190年)6月条に御随身左府生・秦兼平がおり、三上荘を「譜弟相伝の地」としている。加えて建久元年(1191年)には御随身左府生で兼平の子・兼峰の名前も見える[6]

一次史料に見える左右近衛府の秦氏

京都大学付属図書館所蔵『秦氏系図』に見える人物

書物に見える左右近衛府の秦氏

脚注

関連項目

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