秦政明
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14歳で敗戦を迎え、戦後日本共産党に入党[2]。大阪大学時代は、日本共産党細胞キャップ(地方支部との意味)の指導的メンバーだった[3](べ兵連の活動にも参加した真継伸彦の著書「青空」に登場する「万里小路君」は秦がモデルとされていると、法制史研究者の蘆田東一が「秦政明さんを偲ぶ」で書いている)[4]。蘆田によると、秦は日本共産党が毛沢東思想に準じて作った山村工作隊の一員として、「吹田事件」を主導したという。この事件の後、秦は在日朝鮮人宅に匿われるなど、しばらく逃亡生活を続けたという[4]。
その傍ら歌ごえ運動に没頭し(その頃からの知人に田川律がいる[5])、28歳で卒業後の1958年大阪労音に入社[4]。その後クラシックのコンサートを主催する「大阪国際フェスティバル協会」入社[1][6][7]。
1962年、大阪国際フェスティバル協会から独立し、外タレの関西公演を取り仕切るイベンター会社、「アート・プロモーション」を興す[8][7]。
1966年7月、大阪労音に“フォークソング愛好会”を発足[9]。森山良子やアマチュア時代のザ・フォーク・クルセダーズらを集めて、8月19日、大阪フェスティバル・ホールにて「第1回フォーク・フォーク・フォーク」という催しを主催[10]。その頃に高石ともや(その頃は本名の尻石友也で活動)に出会う[5]。高石のやっている音楽に衝撃を受け、自宅に居候させながら、マネージャーとして労働組合や学校、反戦集会、労音など色々な場所で歌わせ[10]、二人三脚で活動を始める。
1967年9月、アート・プロモーションとは別に、高石ともやを中心とした「高石音楽事務所」を大阪に設立[11]、中川五郎、ザ・フォーク・クルセイダーズが合流。
1968年、東芝音楽工業から「帰って来たヨッパライ」をリリースする際、版権会社が必要となったため[12]、「アート音楽事務所」設立。1月に東京・原宿のセントラル・アパートの一室に高石音楽事務所の東京事務所も開設[13]。
1969年1月、アート音楽事務所より月刊誌『フォーク・リポート』発行。2月、関西フォークの一大拠点となった高石事務所所属のアーティスト作品をレコ倫を通さず自由にレコード配信しようと会員制レコードクラブ、「アングラ・レコード・クラブ(略してURC)」設立。
1970年1月、「高石音楽事務所」の名称を、をURC社員だった白井道夫の「事務所に個人名がついていると色々と問題がある。どうせなら大きな名前にしよう」と提案し[14]、「音楽舎」に社名変更された。
1978年、「音楽舎」をいとこの秦慎一郎に引き継ぎ退く[15]。日本古代史の研究に打ち込む[16]。
2003年3月没。
人物
関連書籍
- 風に吹かれた神々: 幻のURCとフォーク・ジャンボリー(1987年6月1日、シンコーミュージック、鈴木勝生)
- 日本フォーク私的大全(1995年9月1日、筑摩書房、なぎら健壱)
- 五つの赤い風船とフォークの時代(2012年7月1日、アイノア、なぎら健壱)
- 日本のフォーク完全読本(2014年6月30日、シンコーミュージック、監修:馬飼野元宏)
- プレイガイドジャーナルへの道 1968~1973: 大阪労音 フォークリポート プレイガイドジャーナル(2016年5月20日、東方出版、村元武)
- 『イムジン河』物語 〝封印された歌〟の真実(2016年8月22日、アルファベータブックス、喜多由浩)
- URCレコード読本(2020年7月31日、シンコーミュージック)
- はっぴいえんどの原像(2023年1月20日、リットー・ミュージック、サエキけんぞう・篠原章)
- 表現の文化研究ー鶴見俊輔・フォークソング運動・大阪万博(2023年9月15日、新曜社、粟谷佳司)
- 関西フォークとその時代: 声の対抗文化と現代詩(2023年10月27日、青弓社、瀬崎圭二)