種部儀康
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |
|
| 出身地 | 鳥取県倉吉市 |
| 生年月日 | 1938年1月21日(87歳) |
| 身長 体重 |
175 cm 66 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1962年 |
| 初出場 | 1964年3月28日 |
| 最終出場 | 1971年9月24日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
|
選手歴 | |
| |
|
コーチ歴 | |
| |
この表について
| |
種部 儀康(たねべ のりやす、1938年1月21日 - )は、鳥取県倉吉市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。妻は宮田征典(読売ジャイアンツ同期入団)の姉・鈴子。孫はシンガーソングライター兼グラビアアイドルの宮田みほ[1]。
上灘小から倉吉東中を経て入学した倉吉農業高ではエースとして活躍したが、同年次に米子東高の義原武敏や境高の米田哲也といった好投手がおり、甲子園には出場できなかった。高校卒業後は1957年に米子鉄道管理局へ入社し、改札の切符切りなどの業務に従事。鉄道関係の略号などに詳しくなったほか、レールの上を走る汽車や貨車の車種を当てる特技も身に付けた。1961年にはクラレ岡山の補強選手として都市対抗に出場し、北海道拓殖銀行との1回戦に登板したが、敗戦投手となっている。1962年に読売ジャイアンツへ入団。2年間は一軍登板無しに終わったが、2年目の1963年には第1回ジュニアオールスターに出場して勝利投手となったほか、二軍で9勝3敗・防御率1.50でイースタン・リーグ最優秀投手に輝いている。3年目の1964年には一軍に上がり、同年6月に上手投げから変則的なサイドスローに転向。スライダー、クセのあるシュートやカーブを武器に、主にリリーフとして起用される。1965年には自己最多となる33試合に登板して4勝を記録し、南海との対戦となった同年の日本シリーズと1966年の日本シリーズではそれぞれ1試合に登板。1968年は防御率6.00に終わり、1969年には登板が無く、オフに金銭トレードで南海ホークスへ移籍。ここでも主に中継ぎや抑えとして起用され、野村克也選手兼任監督の再生術により復活し、1970年は5勝を挙げる。1971年も22試合に登板するが、同年限りで現役を引退。
引退後は南海で1年だけ二軍投手コーチ(1972年)、南海退団後の1975年には群馬テレビ「プロ野球オープン戦中継」解説者を務めた[2]。