正倫は、前任の長崎奉行・黒川正直の後任として寛文5年から同6年まで長崎奉行を務めた[2][4]。
寛文6年2月17日に正倫は死去した。長崎在任中での正倫の逝去によって同地は奉行不在となった。それに対し江戸幕府は、天草藩藩主・戸田忠昌を長崎へ派遣して監視させ、諸国を巡察中だった使番の「下曾根三十郎」を久留米から長崎へ向かわせた[注釈 1]。このように、長崎近くにいる大名や諸国巡察中の者が急行して長崎を監視するような事例はそれ以前にはなく、これ以降も行われなかった[注釈 2][2][5]。
『徳川実紀』には、同年二月二十六日の条に
長崎奉行稲生七郎右衛門正倫大病により、其子書院番次郎八正盛幷に弟小十人組五郎左衛門正照看侍の暇下さる
とあり、正倫の嫡子で書院番の正盛[注釈 3]と末弟で小十人組の正照に、看病のためとして暇を与えている[5]。
『長崎実録大成 正編』[注釈 4]では、
一 寛文六年(一六六六)二月十七日御奉行稲生氏於長崎卒去。法号孝山浄忠大居士。当寺ニテ荼毘アリ。
とあるように、ほとんどの長崎地誌類では正倫は「光源寺に埋葬された」と書かれている。しかし、『寛保日記』によれば下記のようになっている。
一 稲生七郎右衛門様、右午ノ二月十七日暮六ツ時分ニ、長崎ニ而御年四拾弐ニ而御死去被成候、御死骸ハ同十八日夜八ツ時分ニ、諫早通リ江戸江参候、御供ニ御家老深見九郎左衛門殿細田九太夫殿小姓衆歩行之衆道具之者人数合百廿人余馬弐疋参候
附リ、御政所江御詰衆七郎右衛門様与力同心衆人数六拾六人余御詰被成、長崎中昼夜共ニ御廻リ被成候事
正倫が亡くなったのは17日午後6時前後で、翌日の午前2時前後には、家老2人と家臣120人の随行とともに亡骸は諫早を通って江戸へ向かって運び出されたとある。さらに長崎では正倫配下の詰衆や与力・同心66人が残って昼夜巡視したとも書かれている[2][5]。
これに対し、歴史学者の鈴木康子は、これは幕府が遺体検分する必要性のある事例で、しかも長崎で正倫を葬ることに対しての強い拒否反応があったためと考えている。そして、これは長崎地下人により何らかの手段で暗殺されたためで、この後長崎に赴任した河野通定が屋敷に長崎の町人を入れなかったこと、長崎出身でない医師を側近としたことなども、それを示唆しているとする[2][5]。
しかし、これらの疑惑を裏付ける古文書類は、度重なる長崎市内の大火でほとんどが焼失してしまい、証拠となるものは残されていない[2]。