稲生正武

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稲生 正武(いのう まさたけ、天和3年(1683年) - 延享4年8月15日1747年9月19日)は、江戸時代旗本。父は稲生正照、弟は嶋正祥、子は正英、孫は正禮、曾孫は正順。通称は次左衛門、官位は下野守で、稲生下野とも呼ばれる。稲生氏の祖先は諸説があり、坂東八平氏三浦氏和田氏一門の市川義胤の玄孫の稲生重村(九郎)の系統、藤原式家尾張平賀氏流の稲生光定(次郎左衛門・五郎左衛門)の系統などがあり、前者は伊勢国奄芸郡稲生村(現在の三重県鈴鹿市南部)、後者は尾張国春日井郡山田荘稲生村(現在の愛知県名古屋市西区稲生町)をそれぞれ本貫地とした。当項では、藤原式家尾張平賀氏流として扱う。室町時代に光定の玄孫の光房(七郎右衛門)は三河国に移住した。光房の子の光実は松平清康に仕えた。光実の子の光忠(正吉)・光信(吉重)父子は松平広忠に仕えた。光信の子の光正(光春)は徳川家康に仕えて、武蔵国500石の扶持を与えられた。その子の正信(光重)は徳川秀忠に仕えて、旗本になり、大坂の陣に参戦した。稲生氏は正信の子の正倫(正友)と正親と正照の兄弟の系統に分かれた。正照の子が正武である。

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