Wikiwand AI

稲田藤治郎

From Wikipedia, the free encyclopedia

生年月日 1869年
没年月日 1942年
稲田藤治郎
いなだ とうじろう
生年月日 1869年
出生地 日本の旗 日本 伯耆国鳥取藩会見郡米子町
(現:鳥取県米子市)
没年月日 1942年
出身校 東京高等商業学校
(現一橋大学)
所属政党 政友会
選挙区 鳥取県郡部
当選回数 1回
在任期間 1903年3月1日 - 1903年12月11日
テンプレートを表示

稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日[1](1869年5月2日) - 昭和17年(1942年)2月22日[2])は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。稲田家の七代目。鳥取県平民[3]。

弁護士・公証人雑賀愛造、洋食のレストラン“十字屋”経営主で元米子市会議員野坂康久などは稲田一族の出身である。

鳥取県米子市久米町出身[4]。稲田喜重郎の二男[5]。家業は酒・醤油醸造業[4](現・稲田本店)。

明治21年(1888年)東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業[5]。

明治25年(1892年) 久米町にてビール工場を建設。本場ドイツで学んだ技師を雇い入れ、瓶は手拭で手造り、長いコルク栓でガス漏れを防ぐ等の工夫を凝らし“イナタビール”として売り出す。後年隣家より出火、類焼(ビール工場は全焼)に逢い、ビール製造は中止の止むなきに至ったが、地ビール製造の先駆とも言える存在であった[6]。

予備陸軍三等軍吏から陸軍一等主計に昇進し、この間、日清戦争、日露戦争に従軍した[4]。

明治36年(1903年)3月、第8回衆議院議員総選挙に鳥取県郡部から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した[2]。

大正2年(1913年)兄秀太郎方より分家して一家を創立す[5]。

政治の世界を去ってからは東京に在住して各種の事業を営んだ。

家族・親族

稲田家

(鳥取県米子市紺屋町・米子市久米町、東京都)
  • 『新修 米子市史 第五巻 民俗編』によれば、
「因幡屋稲田家は、延宝年代(1673年~1680年)以前に因幡から伯耆の大寺村(現岸本町大寺)へ移り、元禄のころには米子で酒造業を営んでいる[7]。米子での初代は因幡屋半兵衛(延享三年没)で、二代七左衛門(元文二年~文化六年)、三代喜右衛門(宝暦一二年~文政七年)、四代嘉右衛門(寛政七年~明治一八年)、五代喜右衛門(改喜重郎、天保七年~明治四二年)と続いている[7]。」。
  • 『米子商業史』によれば、
「紺屋町で酒造業、質商を営んだ因幡屋稲田家は、昭和9年(1934年)同家七代目藤治郎が記した稲田家系図によると、延宝年代(1673年~1680年)以前、因幡から大寺村に移って、生業に従事していたが、元禄のころ米子に移り、岩倉町から尾高町に落ち着いた[8]。米子の初代は因幡屋半兵衛で、古い祖先の墓が飯生村にあったのを、菩提寺の安国寺に移したという[8]。半兵衛は延享3年(1746年)没[8]。18世紀の70~80年代に、紺屋町に移って酒造業を開始した[8]。
六代目稲田秀太郎
四代嘉右衛門は、明治18年(1885年)84歳で没するまで長命を保ったが、営業を拡大し、町年寄その他公職を奉じ、苗字帯刀を許された[9]。華道、茶道の趣味もあり、菩提寺鐘楼の建立や、荒尾家への資金用立などにその財力を示した[9]。
幕末から明治にかけて五代目嘉右衛門(嘉重郎[10])、六代目秀太郎もそれぞれ、町の政財界に重きをなした[9]。醸造業は酒・醤油のほか、明治中期にはビール製造にも着手した[9]。
安政4年6月生[5] - 没
明治7年(1874年)5月生[5] - 没
明治28年(1895年)2月生[5] - 没。住所は東京都世田谷区太子堂[12]。

三男 恭三 明治32年生まれ(湯浅坂本法律特許事務所). 四男 謙吉(軍人川井氏へ養子) 明治33年生まれ 宗教は曹洞宗[12]。

  • 同妻・ルイ[5](太宰一郎妹[5])
明治39年(1906年)10月生[5] - 没
  • 男・千秋[5](天野芳太郎の養子になる[5])
  • 庶子男・譲[3](生母・鳥取県平民間瀬春野[3])

脚注

参考文献

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks