稲蜂間仲村女
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経歴
聖武朝の天平19年(747年)11月19日「間写経目録」に「因幡中村」として名が見えている。
孝謙朝の天平勝宝6年(754年)9月8日内侍として写経を宣している[3]。
淳仁朝の天平宝字5年(761年)正月、従七位上から外従五位下に叙爵される[4]。3月、一族の醜麻呂ら7人とともに連姓を授けられる[5]。天平宝字6年(762年)3月25日付「石山院牒」には「因八麻命婦」とあり、孝謙上皇のために鋳工を召し出している。同年12月14日に欧陽詢真跡屏風を借りだしている。
天平宝字7年(763年)正月に従五位下[6]、10月には従五位上を授けられ[7]、天平宝字8年(764年)9月、藤原仲麻呂の乱における功績により、一族の醜麻呂とともに宿禰に改賜姓され、正五位上に昇叙されている[8]。