竇夢徴
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若くして苦心して文章を作り、進士に及第した。校書郎を経て、拾遺から翰林学士となった。後梁の貞明年間、呉越の銭鏐が元帥に任命されると、夢徴は銭鏐に中原での功績がないことから、兵権を与えるべきではないと末帝に諫言した。このため末帝の猜忌に触れ[1]、蓬萊県尉に左遷された[2]。しばらくして召還され、再び翰林学士となった[3]。同光元年(923年)、後唐の荘宗が開封府に入ると、夢徴は沂州司馬に左遷された[4]。後梁の末帝からの旧恩に感謝して、「祭故君文」を作った。ほどなく宿州に移された[3]。また翰林学士・駕部郎中・知制誥に任じられた。天成2年(927年)、中書舎人に転じた[5]。長興元年(930年)、翰林学士・中書舎人のまま、工部侍郎となった[6]。長興2年(931年)8月20日、死去した[7]。礼部尚書の位を追贈された。著書に『東堂集』10巻があり、当時に通行した[3]。