立原杏所
1785-1840, 江戸時代中期~後期の武士、南画家
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯

立原翠軒の長男として水戸下市横竹隈に生まれた[1]。幼い頃、林十江に画筆を学ぶ[2]。寛永8年(1796年)、父の門下で鮎画や真景図の名手であった小泉斐(壇山)などに師事する[3]。また、伊勢国寂照寺の僧・月僊にも学び、付立技法による山水画の樹木や、花鳥画の筆勢が強く爽快な表現などにその影響が見られる。享和3年(1803年)に父が隠居し、家督を継いで(家禄200石)先手物頭、扈随頭などの職を務めた。
文化9年(1812年)、江戸小石川藩邸勤務となってからは谷文晁に師事し、中国の元代から明、清の絵画を閲覧、場合によっては借り受けて模写をしている。とくに惲寿平、沈南蘋の画風を学んだという。また宮部雲錦にも画技を習い、その人となりに影響されたという。その作品には謹厳にして高い品格を漂わせ、すっきりと垢抜けた画風が多い。渡辺崋山・椿椿山・高久靄厓とも交流があり、華山が蛮社の獄で捕縛された時には、椿山らと共に不自由な体をおして救出に助力・助言をし、藩主斉昭の斡旋を図ろうとしている。その他、業績としては日本画多数。著書に『水滸伝印譜』、『近世書画年表』、『墨談評』などがある。
最晩年に脚気を患い、天保11年(1840年)、小石川の藩邸で死去。享年56(満54歳没)。墓は東京都文京区向丘の海蔵寺と、茨城県水戸市六反田町の六地蔵寺。
系譜
逸話
- ある時、杏所が講義のため訪れた処で、馬を繋ぐことを忘れたため、辞去の際、馬の姿がなかったという。客ととも馬を探したら数町先の大洲侯の藩邸の門外にいたという。
- 主君・徳川斉昭が散楽を好んで天狗の面を作らせたが、鼻があまりに高すぎるため、作り直させようとしたところ、杏所は「それくらいのことなら私にもできる」といい、鋸で切り落とし、使いものにならなくなってしまった。杏所の放達ぶりを示す逸話として伝わっている。
- また、杏所は斉昭から目前で書画を行うことを命じられたという。杏所は書画をよくしたが画工の様を見られるのは好まなかった。そこで、使い古しの巾を袂から出し、それを硯に浸して紙に投げつけたところ、墨が飛び散り斉昭の袴を汚したという。斉昭が「何をするのか」ととがめると、「葡萄を画いてご覧に入れます」といい、既にその書画を完成させ、一座を感嘆させたという。
- 杏所は巻菱湖と交誼を結んでいたが、ある時、2人で酒楼にて酒を酌み交わしていると菱湖が酔いに任せ、「あなたの名は任で私の名は大任。あなたはわたしに及ばない」とからかったという。杏所は色をなし「任の名が嘘名でないことをお目にかけようか」といって、菱湖を楼下に投げてしまい、菱湖はあやうく足を挫きそうになったという[4]。
- 大橋淡雅の娘・巻子に恋焦がれるも淡雅の反対[5]で想いは報われることはなかった。傷心を癒すためか巻子への想いを募らせて楊貴妃図を描いている。
