竹本南部太夫
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竹本 南部太夫(たけもと なんぶたゆう)は、義太夫節の太夫。
後の2代目竹本摂津大掾。
2代目
(弘化4年(1847年)8月 - 明治29年(1896年)4月14日[1])本名は藤瀬源次または源吉、源助・源介、後に原源治[2]。
筑前国怡土郡加布里村(現・福岡県糸島市)の生まれ[注釈 1]、藤瀬兵助の二男。1868年(明治元年)二代目竹本越路太夫(後の攝津大掾)に入門。1869年(明治2年)因会入会。1870年(明治3年)5月竹本亀久太夫の名で稲荷文楽芝居で初舞台。大序「御鯛茶屋の段」を勤める。1875年(明治8年)1月に二代目竹本南部太夫を襲名。時々文楽座を離れ、九州で興行に出座したり、地元弟子を集めて稽古をつけたりした。1878年(明治11年)佐賀県小城町(現・小城市)で興行した記録がある[4]。松島文楽座にも度々出勤した。1885年(明治18年)4月に三代目野澤勝市(後の初代喜左衛門)が相三味線となる[5]。同年10月には、越路太夫らと共に東京猿若町芝居興行に加わる[6]。1892年(明治25年)5月博多の安楽舎の女義の弟子3人との興行した記録がある[7]。1896年(明治29年)4月14日(旧暦3月12日)、福岡県三潴郡大莞村(現・大木町)で死去(享年49)[8]。同村大字三八松字野口に墓地が建設される。墓碑には、杵島郡川古(現若木町)の人びとと地元弟子竹本南島太夫(野口恂平)の名前と師匠の越路太夫と同じ定紋(花菱)が刻まれている。