竺縵卿
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日本に留学し、1920年(民国9年/大正9年)に東京高等師範学校理科第三部甲班を卒業した[3]。1921年(民国10年/大正10年)からは京都帝国大学経済学部に入学し、1924年(民国13年/大正13年)に卒業している[4][注 2]。当初は洮江第四中学主任教員兼舎監となったが、まもなく国民政府に入り、外交部江寧交渉員公署秘書兼金陵関監督公署秘書となる[1]。その後は実業界に転じ、中日実業有限公司上海分行経理、中華電気製作廠董事、上海閘北水電公司顧問などをつとめた[1][2]。
1938年(民国27年)3月28日、梁鴻志らが中華民国維新政府を樹立した際に、竺縵卿は南京で日本語担当広報官をつとめた[5][注 3]。4月1日には実業部(部長:王子恵)で司長として起用され[6]、同部で工商司長、商標局長、食糧産銷管理局長を歴任・兼任している[2][7][8]。
1940年(民国29年)3月30日、維新政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流すると、竺縵卿は農鉱部(部長:趙毓松)で食糧管理局長や顧問に任命された。翌1941年(民国30年)2月、廉隅が初代駐満洲国大使に任命されたことに伴い、竺も大使館参事(官)として新京に赴任している。1942年(民国31年)4月、公使銜を加えられ、翌1943年(民国32年)3月には正式に公使の位を授与された(参事官兼任)。5月には満洲帝国から勲二位柱国章を授与されている。同年9月[注 4]、公使を免ぜられた[1]。
その後、竺縵卿の動向は不詳である。なお、竺が漢奸として摘発されたとの情報はない。