笑福亭枝鶴 (3代目)

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本名山中 滝之助
生年月日1895年
没年月日1946年5月13日
出身地日本の旗 日本
3代目 笑福亭(しょうふくてい) 枝鶴(しかく)
3代目 笑福亭(しょうふくてい) 枝鶴(しかく)
五枚笹は、笑福亭一門の定絞である。
本名 山中 滝之助
生年月日 1895年
没年月日 1946年5月13日
出身地 日本の旗 日本
師匠 桂文人
初代桂花丸
7代目翁家さん馬
名跡 桂文輔
桂花三郎
2代目桂花丸
翁家さん勝
桂花柳
3代目笑福亭枝鶴
活動期間 ? - 1946年
活動内容 上方落語
新作落語
軽口
主な作品
『豆炭』

3代目 笑福亭 枝鶴(しょうふくてい しかく、1895年 - 1946年5月13日)は、明治から昭和にかけての上方落語落語家上方噺家[1]。本名: 山中 滝之助[1]

素人噺家からプロの落語家に進む[1]。初め桂文人3代目桂文枝門下)の弟子となり文輔を名乗る[1]。師の没後、1914年頃に初代桂花丸(後の初代桂花團治)門下で花三郎に改名、師の花團治への改名を機に2代目花丸に再度改めた[1]活動は端席や旅興行が多く寄席にはほとんど出なかった。人柄や腕が優れたことなどの理由で一時(1917年ごろ)7代目翁家さん馬8代目桂文治)から目をかけられて門下になり翁家さん勝を名乗った[要出典]

復帰後、1927年ごろに[要出典]旅興行の際、花丸という高座名が素人もしくは稽古屋を連想させるという理由で、旅先のみ「花柳」を名乗ることにしたが、結局その後もその名乗りを続けた[1]

1930年代後半には、初代桂春輔とコンビを組み、神戸市の「千代之座」で軽口を演じていたこともある[2]

1943年12月に[要出典]3代目笑福亭枝鶴を襲名[1]。亭号を変えたのは、吉本興業を離れていた5代目笑福亭松鶴の復帰に合わせて落語家に戻ることになったものの、復帰時にはすでに弟弟子の桂花次が2代目花團治を襲名しており、「花柳」のままでは2代目の弟子のように思われることから、5代目松鶴の前名である「枝鶴」を襲名したという事情による[3][注釈 1]。5代目松鶴の「楽語荘」同人となり、2代目桂米之助(後の4代目桂米團治)の『代書』が載った第『上方はなし』46集にやはり新作の『豆炭』を寄稿し、ともに将来を嘱望された[1]

1946年5月13日に急死し、死因は大阪市東成区今里4丁目の自宅近くの飲食店で摂取した酒によるメチルアルコール中毒だったと死去2日後の新聞には記載された[1][4]。新聞記事によると51歳没[4]3代目桂米朝が5代目松鶴から聞いたところによると、当日は5代目松鶴とその子息(のちの6代目笑福亭松鶴)それに4代目米團治で会食していたが、枝鶴だけが飯を食べなかったため、メチルアルコールが胃に残って体に毒が回り、死に至ったという[4]

芸風

脚注

参考文献

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