笑福亭枝鶴 (3代目)
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素人噺家からプロの落語家に進む[1]。初め桂文人(3代目桂文枝門下)の弟子となり文輔を名乗る[1]。師の没後、1914年頃に初代桂花丸(後の初代桂花團治)門下で花三郎に改名、師の花團治への改名を機に2代目花丸に再度改めた[1]。活動は端席や旅興行が多く寄席にはほとんど出なかった。人柄や腕が優れたことなどの理由で一時(1917年ごろ)7代目翁家さん馬(8代目桂文治)から目をかけられて門下になり翁家さん勝を名乗った[要出典]
復帰後、1927年ごろに[要出典]旅興行の際、花丸という高座名が素人もしくは稽古屋を連想させるという理由で、旅先のみ「花柳」を名乗ることにしたが、結局その後もその名乗りを続けた[1]。
1930年代後半には、初代桂春輔とコンビを組み、神戸市の「千代之座」で軽口を演じていたこともある[2]。
1943年12月に[要出典]、3代目笑福亭枝鶴を襲名[1]。亭号を変えたのは、吉本興業を離れていた5代目笑福亭松鶴の復帰に合わせて落語家に戻ることになったものの、復帰時にはすでに弟弟子の桂花次が2代目花團治を襲名しており、「花柳」のままでは2代目の弟子のように思われることから、5代目松鶴の前名である「枝鶴」を襲名したという事情による[3][注釈 1]。5代目松鶴の「楽語荘」同人となり、2代目桂米之助(後の4代目桂米團治)の『代書』が載った第『上方はなし』46集にやはり新作の『豆炭』を寄稿し、ともに将来を嘱望された[1]。
1946年5月13日に急死し、死因は大阪市東成区今里4丁目の自宅近くの飲食店で摂取した酒によるメチルアルコール中毒だったと死去2日後の新聞には記載された[1][4]。新聞記事によると51歳没[4]。3代目桂米朝が5代目松鶴から聞いたところによると、当日は5代目松鶴とその子息(のちの6代目笑福亭松鶴)それに4代目米團治で会食していたが、枝鶴だけが飯を食べなかったため、メチルアルコールが胃に残って体に毒が回り、死に至ったという[4]。