笠井満秀
日本の戦国時代の武将、笠井城主、肥後守、武田氏旗本
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概要
生涯
出自
生年は不詳。甲斐南部氏10代当主の南部宗秀の子として生まれる[3]。父は、武田信虎から信玄まで仕えた家臣であったが、濫行を犯した事により追放[3]。そのため、満秀自身は南部氏を継がず、河西や笠井氏を名乗ったと思われる[3]。
武田信玄の時代
武田信玄の頃に仕えていた満秀の当時の名字は河西と思われる(武田信玄事蹟考より)
1569年8月14日(永禄12年7月2日)、武田信玄による駿河侵攻の時、に武田信玄が大宮城を攻める際にも戦功をあげている(信濃史料 巻十三より)

この頃までには、官位は肥後守だったと思われる。
武田勝頼の時代
1573年5月13日(元亀4年4月12日)に武田信玄が死去すると、信玄の養子の武田勝頼に仕える[3][5]。この頃には、河西という名字ではなく、笠井と名乗っている。また、高利(たかとし)という別名も名乗っている[2]。
長篠の戦い
1575年6月29日(天正3年5月21日)に、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)で暴発した長篠の戦いでは、武田勝頼の軍に従軍[5]。
満秀は乱戦で勝頼から逸れていたが、当時勝頼を死守していた初鹿根伝右衛門と土屋昌恒に追いつき、勝頼を死守した[5]。
しかし、勝頼の馬が動かなくなったため、満秀は勝頼に自分の馬を渡す。織田軍の先頭の滝川一益の軍勢が攻めてくると、満秀は1人だけで立ち向かった[6]。
死去
満秀の槍の腕は凄まじく、滝川一益の兵の喉を坦々と突いていき、一益の軍は一気に混乱した[6]。 しかし、一益の家臣・滝川助義(源左衛門)と鉢合わせし、一騎討ちとなる[6]。圧倒的に満秀が不利な状況の中、助義は馬に乗りながら槍を振るう[6]。しかし、満秀は戦いの疲れや傷口に果ててしまい、死去。翌日に助義も満秀から負った傷口により死去する。結果は相討ちであった[6]。