第22軍団 (北軍)
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| 第22軍団(XXII Corps) | |
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第XXII軍団第3師団記章[1] | |
| 活動期間 | 1863年2月2日 — 1865年6月26日 |
| 国籍 | アメリカ陸軍 |
| 忠誠 | 北軍 |
| 兵科 | 歩兵および騎兵 |
| 彩色 |
白地に赤(第1師団) 青地に白(第2師団) 白地に青(第3師団) |
| 主な戦歴 |
東部戦線: • 1864年のバレー方面作戦 • スティーブンス砦の戦い |
| 指揮 | |
| 初代軍団長 | サミュエル・ハインツェルマン少将 |
| 第2代軍団長 | クリストファー・オーガー少将 |
| 第3代軍団長 | ジョン・パーク少将 |
南北戦争中の北軍第22軍団(XXII Corps)は1862年2月2日にワシントンD.C.地区の駐屯部隊を統合して結成された、ワシントン防衛を主任務とした軍団である[2]。3個歩兵師団と1個騎兵師団(ジャドソン・キルパトリック師団長。ゲティスバーグ方面作戦中に第22軍団を離れてポトマック軍に加わった)で構成されていた。隷下の多くの部隊が、ユリシーズ・グラントのオーバーランド方面作戦ではポトマック軍に加わった[2]。
ワシントン軍管区
1863年2月2日、ワシントン軍管区(Department of Washington)が設立された。その管轄地域は、東南端がピスカットウェイ・クリーク(Piscataway Creek)、北東はアナポリス・ジャンクション(現在のフォード・ミード(Fort George G. Meade)付近)、北西はモノカシー川(Monocacy River)、南西はブルラン山地(Bull Run Mountains)であった。管轄区域は戦争期間中に拡大され、周辺のメリーランド州とバージニア州のカウンティも含むこととなった[3]。
ワシントン軍管区の軍需品科は北軍最大の軍需品科であった。任務はビルの建設から、要塞の維持、補給、道路建設、武器の試験の他に様々な業務に及んだ[4]。ワシントンはまた、ポトマック軍都ジェームズ軍への物資補給拠点であった。
第22軍団
軍団は2個ないし6個の師団から構成される組織で、通常は少将が司令官を務める。米国における最初の軍団は1862年7月17日に設立されている。それ以前は、複数の師団からなる組織は「大師団(Grand Division)」や「翼(Wing)」と呼ばれていた。軍団の上部組織としては軍があるが、第22軍団の上部組織としての軍はなかった。
第22軍団の創設は1863年2月2日である。通例通り、軍団長はワシントン軍管区の司令官も兼ねた。軍団の存続中、多くの連隊が主としてポトマック軍に送られ、またそこから戻ってきた。
戦闘
モスビーの襲撃
一般にはモスビー・レンジャーまたはモスビー・レイダーとして知られる、ジョン・モスビー大佐が指揮する南軍第43バージニア騎兵大隊(43rd Battalion Virginia Cavalry)は、モスビー連合(Mosby's Confederacy)と呼ばれたバージニア数ロードン・カウンティ(Loudoun County)からフェアファックス・カウンティ(Fairfax County)に懸けた地域に何度も急襲をかけてきた。モスビーの襲撃の多くが、第22軍団が防衛を担当する地域に対して行われ、ウィリアム・ギャンブル(William Gamble (general))准将の騎兵師団[5]や他の22軍団の所属部隊と何度も小競り合いを演じた[6]。ジュバル・アーリーのバレー方面作戦において、モスビー・レイダーは第2バーモント旅団の旅団長であったエドウィン・ストートン(Edwin H. Stoughton)准将を捕虜にし[7]、シオン山教会で電信線を切断し(Action at Mount Zion Church)、鉄道と補給拠点を何度も襲撃した[8]。
スティーブンス砦の戦い
第22軍団は、1864年のジュバル・アーリーのワシントン襲撃を阻止した、7月11日のスティーブンス砦の戦いにおいて重要な役割を果たした。マーティン・ハーディン(Martin Davis Hardin)の師団は散兵線を敷き、小規模な戦闘を行い、戦死・戦傷73人の損害を出した[2]。翌日、アーリーはホレイショ・ライト少将の第6軍団と名誉准将のウィリアム・エモリー(William H. Emory)の第14軍団のベテラン兵士による防御線を発見した。小規模な戦闘の後、7月13日にアーリーはバージニアに撤退した。