笹野甚四郎
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静岡県志太郡藤枝町出身。藤枝宿下伝馬の郷宿「ならや」を営む八百次の長男[9]。幼名は十三吉[9]。恵まれた環境であったが5歳の時に実父を、12歳の時に祖父を、14歳の時に継父を亡くし笹野家は苦境に立たされる[9]。
1868年、家督を相続[6][8]。祖父の甚四郎の名を襲名し「ならや」の看板を捨て、料理屋を起こす[9]。1869年、隣家からの火事で全焼し、それを機に駿河半紙を扱う紙屋に転身、同業者が増えると次に運送業を始める[9]。
1891年、東京へ出る[9]。缶詰製造・精米業を営む[1]。1894年、日清戦争の際に笹野の食糧事業が注目され、海軍省に納めることになる[9]。1904年には陸軍にも納入され、兵食の三分の一を賄うまでになる[9]。
海陸御用商として佐世保、鎮海湾等に支店及び製造所を設け、諸種の缶詰を製造し、また東京の深川に精米所を経営した[10]。信用は四方に溢れて陸海軍の御用品として、或いは各地海外に販路は拡域され、取引は殷賑を極めた[1]。
また銀行会社の重役であり[7]、共盛銀行頭取、藤相鉄道社長、帝国鉄筋コンクリート、静岡県農工銀行、中遠鉄道各取締役、藤枝合同運送、大正化学製品、東陽製茶各監査役等をつとめた[5][6][7][10]。劇場の建設にも関わった[9]。