山梨県東八代郡米倉村(現・笛吹市)で誕生した[3]。1904年(明治37年)、17歳のときに作家を志した[4]。1915年(大正4年)に短歌雑誌「潮音」の創刊に参画し、創刊と共に幹部同人として活躍した[1][5]。
1918年(大正7年)、小田観螢と結婚した[6]。夫の教員としての任地である北海道に移住し、二児をもうけた[1]。しかし生来より病弱の身であり、先妻の子の養育、自身の出産、北海道の厳しい気候で体を患ったことで[6]、1926年(大正15年)、子供を観螢のもとに残して山梨に帰り、療養生活を送った[7]。
1930年(昭和5年)、小田観螢との合著『忍冬(ずいかずら)』を発表した[6][7]。観螢の師である太田水穂は「この夫婦の沈痛な生涯をつくづく見て、終わりまで忍ぶものの寒苦に、涙といふよりも一種の畏敬せらるねき厳粛さを感ずる」と文を寄せた[7]。
1938年(昭和13年)2月、重篤に陥った。観螢が子供たちを連れて山梨へ駆けつけ、成長した子供たちと再会した[7]。しかしそれも空しく、同1938年2月9日に病死した[5]。没後には遺歌集『竹落葉』が刊行された[1]。