紀名虎
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嵯峨朝末の弘仁13年(822年)従五位下に叙爵。淳和朝では叙位任官記録がないなど昇進が停滞した。
仁明朝初頭の承和元年(834年)に兄の興道が没すると、翌承和2年(835年)従五位上次いで正五位下、承和5年(838年)従四位下、承和8年(840年)従四位上、承和10年(842年)正四位下と急速に昇進を果たす。また、この間に右馬頭・左衛門佐・掃部頭・中務大輔など京官を歴任した。この急速な昇進は、娘の種子を仁明天皇の後宮に女官(更衣)として仕えさせたことによるものとされる[1]。承和11年(843年)刑部卿に任ぜられる。
またこの頃、名虎はもう一人の娘である静子を皇太子・道康親王(のち文徳天皇)に入侍させており、承和12年(844年)には第一皇子・惟喬親王を儲けている。承和14年(847年)6月16日卒去。最終官位は散位正四位下。
なお名虎の死後、文徳天皇は右大臣・藤原良房の外孫である皇太子・惟仁親王(のち清和天皇)が成人するまでの間、惟喬親王に皇位を嗣がせようとしたとされるが、これは実現しなかった[2]。