紀牟良自
From Wikipedia, the free encyclopedia
聖武朝の神亀元年(724年)海道の蝦夷の反乱により、陸奥大掾・佐伯児屋麻呂が殺害される[1]。この時、牟良自は持節大将軍・藤原宇合や副将軍・高橋安麻呂のもとで軍功をあげたと見られ、翌神亀2年(725年)後部王起・田辺難波・坂本宇頭麻佐・丸子大国らとともに勳六等・賜田二町を与えられている。この時の位階は少初位上[2]。
天平9年(737年)正月に陸奥按察使鎮守将軍・大野東人の要請により、男勝村を経由する陸奥国から出羽柵への直通路を貫通させるべく、藤原麻呂が持節大使として赴任している。直通路開鑿の過程で、2月25日に大野東人が多賀柵より出発したが、牟良自は麻呂の配下の判官として、東人の指揮の下、3月1日に騎兵196人、鎮兵499人の兵力と、陸奥国の兵5000人、帰服した夷狄249人を率いて色麻柵(宮城県加美郡色麻町一関遺跡、あるいは同郡加美町城生柵跡に比定)を発ち、その日のうちに出羽国大室駅(最上郡玉野にあたり、現在の山形県尾花沢市丹生・正厳付近とされている)に到着した。その後に合流した出羽守田辺難波の軍とともに、新道の開拓事業に従事したものと思われる。この時の位階は従七位上[3]。
以後の記録は存在していない。