「後部」は高句麗の五部の一つで、「絶奴部」・「北部」と同じものを指している。「後部王」のほかに、ただの「後部」、あるいは「後部高」とするものなども見られる。『新撰姓氏録』「右京諸蕃」には、後部王氏は高麗国の長王周の後であるとしており、『続日本紀』には、元明朝の和銅5年正月の従六位下の後部王同が従五位下に叙爵された記事[1]のほか、天平勝宝6年(754年)正月に、正六位上から従五位下に叙爵された後部王吉のことや[2]、天平宝字5年(761年)3月の後部王安成ら二名が高里連の氏姓を授与されたという記事[3]がある。