江戸車坂下(現:台東区上野七丁目)に住んだ。結城敬之助は幕府の与力として、江戸近海の海防・測量・巡見業務に従事した。天保9年(1838年)7月1日、江戸湾防備のための見分御用に召し連れられた与力の一人として、石河土佐守らとともに富津台場付近から東海船に乗船し、測量に参加したことが記録されている。
天保14年(1843年)の記録によれば、結城は羽田奉行所支配の組与力を務めており、前職は西丸御徒である。同年3月15日付の御先手方記録には、羽田奉行支配下の与力として結城敬之助の名が見え、翌天保15年(1844年)10月には羽田御備場引払御用出役を兼ね、田付主計組与力として御鉄砲方に関与したことが記されている。
嘉永3年(1850年)には、江戸近海御備巡見御用に派遣された役人の一人として、田付主計方与力の立場で松島茂輔・脇屋卯三郎らとともに名を連ねている。
弘化3年(1846年)6月3日、浦賀沖に出現したアメリカ船への緊急対応において、浦賀奉行所与力であった佐々倉桐太郎が日本側で最初に米船へ乗り移る任務を果たした。この件について、桐太郎の養父・勘蔵が実父である結城敬之助に宛てた書簡が残されている。
結城は砲術家・田村主計の門人として知られ、天保11年(1840年)ごろ、同門に入っていた若年の小栗忠順と親しく交わった。当時半白頭の結城と忠順は父子のごとき年齢差がありながら水魚の交わりを結び、時事や国政について頻繁に談論したという。
結城は蘭学に通じ、学識と識見を備えた人物で、開港論者の一人と評されている。小栗忠順は結城から大きな影響を受け、大型船建造や海防構想について結城に語ったとされるが、その後の結城の動向については詳らかでない。