結城神社
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結城宗広は後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加し、建武の新政以後の南北朝時代にも南朝方で戦った。北畠顕家親子に従って二度陸奥から京に向けて攻め上ったが、帰国の途中で難破し、伊勢国で没した。その墓と伝えられる場所には、塚の上に六体地蔵が置かれ、結城塚と呼ばれていた。
1824年(文政7年)、津藩の藩主藤堂高兌により社殿が造営され結城神社と呼ばれるようになった。
1879年(明治12年)に村社になった[1]。翌年三重県を訪れた明治天皇が、200円を祭祀料として寄付した。これを機に結城神社の社殿改築、昇格の議論がおこり、県が内務省に願い出て、1882年(明治15年)に別格官幣社に列せられた。
1937年(昭和12年)5月、結城宗広六百年祭を挙行。昭和天皇より祭粢料が下賜された[2]。 1945年(昭和20年)7月に津大空襲によって灰燼に帰す。昭和30年代に復興した。[要出典]
文化財
三重県指定文化財
- 紙本墨書結城神社文書46通
