綾部暁月

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綾部 暁月(あやべ きょうげつ、明治4年(1871年[1]) - 昭和34年(1959年)7月12日)は、明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師

河鍋暁斎及び河鍋暁翠の門人。姓は綾部、名はりう。旗本出身の士族で木彫り師の桑原三(みたび)の長女として本郷に生まれた。幼時に綾部家を継ぐこととなったとする資料もあるが[2]、『河鍋暁斎絵日記』や明治25年(1892年)から明治28年(1895年)の表彰状はみな桑原姓で、綾部家に養子に入ったのはそれ以降だと考えられる[3]。暁月は独り綾部家の位牌を河鍋家の仏壇に合祀し、名実ともに河鍋家の一員として同家にて生涯をすごしている。暁月が何歳で暁斎の門人となったかは未詳であるが、かなりの年少時代であったと思われる。父と刎頚の友であった暁斎を師とし、3歳年上の暁翠を姉そして学友とし、恵まれた環境の下、絵の修業に精進した。暁斎の女流門人で、特に晩年、河鍋家と懇意であった。明治22年(1889年)に暁斎が没すると、その娘、暁翠に入門している。この時、暁翠は22歳であり、河鍋家の全てが若い暁翠の双肩にかかっており、これまで内弟子としてのみの存在であった暁月の立場は一変、河鍋家を支える重要な存在となったのであった。暁翠が明治40年(1907年)、一女吉(よし)を生んだ際には、当時、女子美術学校で教鞭を執っていた暁翠の代わりに、暁月が代稽古として大変重要な役割を果たしている。さらに、昭和6年(1931年)にいたり、吉が二人の女子を生んだ際にも、暁月は能くその面倒をみていたといわれる。また、能書家であり、和漢の故事にも通じていて、記憶力もよかったため、暁翠にとても頼りにされていた。

暁翠と暁月の肉筆画の合作に「鬼の耳を掃除する美人」がある。また、「花魁図」には、「暁翠」の落款があるが、実際には暁月の作品である。それは「翠」の文字の先が丸くなく、鋭角にはねており、また「翠」の字自体が上がり、簡略化されているため、暁翠の作品ではなくて、暁月による作品であると推定される。暁月は河鍋家において、家族の一員として愛され可愛がられ、尊敬されており、功労のあった暁月自らも河鍋家に対し心からの感謝を捧げつつ、綾部家の位牌を護り、89歳という長寿を全うして永眠した。墓所は四谷須賀町の顕性寺。享年89。

作品

脚注

参考文献

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