緑山古墳群
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岡山県南部、総社平野の東南縁辺に突出する三須丘陵において、丘陵西端の標高40メートルの低平尾根(通称「緑山」)に築造された古墳群である。三須丘陵一帯は古墳約350基が分布して古代吉備中枢部の一大造墓地とされ、緑山では西斜面を中心に古墳約20基が分布する[1](現存14基程度[2])。1982-1984年(昭和57-59年)に主要古墳の調査が実施されている。
古墳群の概観としては、丘陵頂部に所在する1・4・6・7・8号墳は比較的大型の墳丘・石室を持ち、山麓に所在するその他の古墳は比較的小規模な墳丘・石室を持っており、階層差を反映するかのようなあり方を示す[3]。丘陵頂部の古墳のうち、6号墳は古式の石室で、4・7・8号墳はそれに後続する時期の大型石室であり、北部九州・畿内由来の構造から吉備地域独特の構造への横穴式石室の発展過程を示唆する[4]。特に最大規模の8号墳の石室は、吉備地域でも突出した規模として注目される。部分的に発掘調査が実施されており、副葬品として鉄製品・須恵器などが出土している。
主要6・7・8号墳の築造時期は、古墳時代後期の6世紀中葉-後半頃(6号墳→7号墳→8号墳)と推定される。三須丘陵ではこうもり塚古墳・鳶尾塚古墳・江崎古墳などの大型石室墳が独立して分布するなか、緑山古墳群ではそれが群在する点で特色を示す[1]。また、南東のこうもり塚古墳は6世紀後半の吉備地域の首長墓とされており、首長系譜を考察するうえでも注目される[4]。
遺跡歴
一覧
1号墳

緑山1号墳は、丘陵南端にある円墳。墳丘の南半は採土工事によって失われ、石室断面が露出する[2]。1984年(昭和59年)3-8月に石室実測調査が実施されている[2]。
墳丘の南半は失われているが、元の墳形は円形で、直径14メートル・高さ2.4メートル程度と復元される[2]。
埋葬施設は横穴式石室で、南南東方向に開口する[2]。石室は、旧地表から掘り込まれた幅5.6メートル・深さ1.5メートルの墓坑内に構築される。玄室の後ろ半分が残存しており、現存長3.9メートル・幅2.3メートル(奥壁)・高さ1.8メートルを測る。昭和26年の近藤義郎による調査では、元は玄室長4.8メートルの片袖式石室であったとされる。奥壁・側壁の最下段には大形の花崗岩の割石を据え、その上に小形の石材を2・3段積みする。床面にはこぶし大の円礫を敷く。天井石は現存2枚(元は3枚か)。石室の裏込めには粘質土・砂質土を交互に使用して、壁体を1段積むごとに突き固める[2]。
石室内の副葬品は失われており、調査時には鉄釘などの鉄器片のみが採集されている[2]。
- 石室内部
- 石室床面断面
- 墳丘遠景
上部に石室断面。石室前面は削平。
4号墳

緑山4号墳は、1号墳の北北西約60メートルにある円墳。1984年(昭和59年)3-8月に石室実測調査が実施されている[2]。
墳形は円形で、直径約24メートル、高さ約5メートルを測る。段築・周溝は明らかでない[2]。
埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南南西方向に開口する。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:11.4メートル
- 玄室:長さ6.1メートル、幅約2.2メートル(奥壁・袖部)、高さ3.3メートル
- 羨道:幅1.5メートル(袖部)・1.6メートル(開口部)、現在高さ1.2メートル
石室の石材は主に花崗岩。玄室の奥壁・側壁は、大形石材の2・3段積みの上に小形石材を3・4段積みすることで構築され、やや持ち送る。羨道の側壁は、玄室よりも小ぶりな石材を使用して3・4段積みする。床面には多量の土砂が流入しているが、玄室奥壁側に存在した盗掘抗の清掃において、地山を削平したうえで拳大の円礫を敷いた床面の一部が確認されている。天井石は、玄室では6枚、羨道では5枚で、玄室・羨道の天井比高差は約1.1メートルである。また羨道の開口部付近の床面では、閉塞石の一部とみられる角礫数個が確認されている[2]。
石室内の副葬品としては、調査時の清掃の際に鉄器片(石突・鉄釘・鎹・刀子など)・須恵器片(平瓶・無蓋高坏・𤭯など)が出土している。築造時期は6世紀後半-末頃と推定される[2]。
- 玄室(奥壁方向)
- 玄室(開口部方向)
- 羨道(開口部方向)
- 羨道(玄室方向)
- 開口部
6号墳

緑山6号墳は、4号墳の北約80メートルにある円墳。1984年(昭和59年)3-8月に発掘調査が実施されている[2]。
墳形は円形で、直径16メートル・高さ2.4メートルを測る。墳丘は、地山を削り出したうえで約1.9メートルの盛土を積んで構築される。墳丘外表で葺石・埴輪・供献土器などは認められていない。墳丘周囲には幅2.4メートル・深さ0.8メートルの周溝が巡らされる[2]。
埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南西に開口する。側壁の構築方法や梱石を有するなど、比較的古式の石室である。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:6.1メートル
- 玄室:長さ3.6メートル、幅2.5メートル(奥壁側)・2.2メートル(袖部)、高さ2.1メートル(奥壁側)・2.2メートル(袖部)
- 羨道:長さ2.5メートル、幅1.05メートル
玄室の奥壁・側壁は、比較的大形の石材を最下段に据えたうえで、やや小形の石材を袖部上面まで2・3段垂直に積み、その上は特に側壁では持ち送りながら3・4段積む。玄室の床面は、南側と北側の左右で異なっており、南側(2号棺側)は墓坑上の整地土上面で、北側(1号棺側)は整地土上に数センチメートル-こぶし大の円礫の礫床を設ける。玄門では、玄室・羨道を画する梱石を両側壁に挟み込む。羨道は玄室中央から南寄りに取り付いており、玄室における小形石材と同程度の大きさの割石を2・3段積む。天井石は、玄室では5枚(現存4枚)、玄門部では1枚で、玄門部の1枚は玄室よりも約0.6メートル低く架構する。羨道の天井石は調査時点で認められておらず、その有無は明らかでない。閉塞施設は土盛りで、粘質土と砂質土を交互に突き固めて構築されており、梱石上から玄門部天井石に達したとみられる。追葬時の掘り込みや玄室内遺物の掻き出しが数回おこなわれたとみられるほか、下層ほど角礫が多く混入しており、初期の閉塞には礫が多用されたと推測される。羨道の前面には、長さ7メートル・幅2メートルの墓道を掘り込む[2]。
石室内の調査では、玄室内で木棺痕跡2基が確認されている。いずれも玄室主軸と平行方向に据えており、北側に1号棺、南側に2号棺が並ぶ。2棺の内容は次の通り[2]。
- 1号棺
- 外法長2.1メートル、幅0.7メートル。長側板が小口板を挟み込んでおり、長側板は小口よりも外側に延びる。棺の接合には鉄釘10本を使用する。棺内では不良遺存状態の粘土化した人骨(羨道部側頭位)が確認されているが、副葬品は出土していない。
- 2号棺
- 外法長2.1メートル、幅0.65メートル。棺の型式は1号棺と同じで、接合には鉄釘6本を使用する。棺内では粘土化した人骨(頭位逆向きの成人2体以上)が確認されているが、人骨の部位は連続せず、棺中央に寄せ集めた様相である。
- 棺内副葬品として直刀・刀子などがあるほか、南側奥壁寄りで馬具の一部や棺と平行方向の直刀が出土している(棺外副葬品か)。検出状況からは2号棺が古く、1号棺が新しいとみられる。いずれの木棺にも伴わない人骨や、遊離した鉄釘・耳環が出土しており、1号棺・2号棺の埋葬前後に他の埋葬が存在したと想定される。石室内の副葬品には、上記のほか馬具・鉄鏃・刀子・須恵器(坏蓋・坏身・高坏・台付埦・台付壺・短頸壺・平瓶など)・土師器(高坏・甕など)がある。また墓道からは、供献土器とみられる須恵器(坏蓋・坏身・高坏・短頸壺・甕・器台・提瓶など)や、玄室内副葬品の掻き出しとみられる鉄鏃・須恵器子持器台が出土している[2]。
築造時期は6世紀中葉頃と推定され、6世紀末までに数回の追葬がおこなわれたと想定される。緑山古墳群では最古段階の築造と位置づけられる。
- 玄室(奥壁方向)
- 玄室(開口部方向)
- 羨道(開口部方向)
- 羨道(玄室方向)
- 開口部
7号墳

緑山7号墳は、6号墳の北に近接する円墳。1982年(昭和57年)11月-1983年(昭和58年)1月に石室実測調査が実施されている。
墳形は円形で、直径約23メートル・高さ約5メートルを測る。墳丘外表で諸施設は認められていない[2]。
埋葬施設は片袖式の横穴式石室で、南西方向に開口する。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:10.4メートル
- 玄室:長さ5.4メートル、幅2.6メートル(奥壁側)・2.7メートル(最大)・2.6メートル(袖部)、現在高さ2.9メートル
- 羨道:幅約1.6メートル
玄室の奥壁・側壁は、大形石材を最下段に据えたうえで、やや小形の石材を3・4段積む。羨道の側壁は、玄室よりも小ぶりな石材を使用して3・4段積みする。土砂の流入により、床面・閉塞施設の状況は明らかでない。天井石は、玄室では5枚、玄門部では1枚、羨道では3枚で、玄門部の1枚は羨道よりも1段低く架構する[2]。
石室内の副葬品は明らかでない。
- 玄室(奥壁方向)
- 玄室(開口部方向)
- 羨道(開口部方向)
- 羨道(玄室方向)
- 開口部
8号墳

緑山8号墳は、7号墳の北北西に隣接する円墳。1983年(昭和58年)11月-1984年(昭和59年)1月に石室実測調査が実施されている。
墳形は円形で、直径約23メートル・高さ約5メートルを測る。墳丘外表で諸施設は認められていない[2]。
埋葬施設は片袖式の横穴式石室で、南南西方向に開口する。緑山古墳群中では最大規模の石室である。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:15.0メートル
- 玄室:長さ7.1メートル、幅2.8メートル(奥壁側)・3.0メートル(最大)・2.6メートル(袖部)、高さ約3.9メートル
- 羨道:幅1.5メートル
玄室の奥壁・側壁は、大形の花崗岩を3・4段積んだうえで、間隙に小形の石材を充填しており、持ち送りは小さい。羨道の側壁は、玄室よりも小ぶりな石材を使用して3・4段積みする。床面には多量の土砂が流入しているが、玄室内の盗掘抗や羨道開口部付近の清掃において、こぶし大の円礫を敷いた玄室床面の一部や、強固に突き固められた土盛りによる閉塞施設(羨道の最も外側の天井石に達したと推定)の存在が確認されている。玄室では6枚、玄門部では1枚、羨道では4枚で、玄門部の1枚は羨道よりも1段低く架構する[2]。
石室内の副葬品としては、調査時の清掃の際に須恵器片(坏蓋・坏身・器台・𤭯・壺・甕など)・土師器片(長頸壺・埦など)が出土している[2]。築造時期は6世紀後半-末頃と推定される[2]。
- 玄室(奥壁方向)
- 玄室(開口部方向)
- 羨道(開口部方向)
- 羨道(玄室方向)
- 開口部
17号墳
緑山17号墳は、円墳。1982年(昭和57年)に市道拡幅工事に伴う発掘調査が実施されたのち、失われている。
墳形は円形で、直径約16メートルを測った[1]。墳丘周囲では山側に周溝が認められている[1]。
埋葬施設は片袖式の横穴式石室で、南西方向に開口した。石室の規模は次の通り[1]。
- 石室全長:9.8メートル
- 玄室:長さ6.2メートル、幅1.4-1.5メートル、高さ1.7メートル
石室の石材には花崗岩の割石・転石が使用される。玄室幅と羨道幅はあまり変わらず、袖部は0.2メートル程度である。側壁は3-4段積みで構築される。玄室内では、棺台石・鉄釘の出土から木棺5-6基を据えたとみられ、玄室内を埋め尽くす状態であったと想定される[1]。
石室内から出土した副葬品としては、大刀・鉄鏃・馬具・須恵器30・土師器2・鉄滓がある[1]。特に鉄装銀象嵌大刀が注目され、現存長93.5センチメートルで柄頭は不明確ながら円頭大刀の一種とみられ、柄頭・鐔には銀象嵌文様を施しており、岡田山1号墳(島根県松江市)出土刀に似た特徴を示す。須恵器は1棺につき1-2個程度副葬される[1]。
築造時期は6世紀後半頃と推定され、7世紀初頭までの間に数次の追葬が想定される[1]。
文化財
岡山県指定文化財
- 史跡
- 緑山古墳群 6号墳・7号墳・8号墳 - 2025年(令和7年)3月18日指定。

