天正元年(1573年)、織田信長の八男として誕生。七男の織田信高(諸説あり)・六女の於振と同じく母は興雲院(お鍋の方)[1]。幼名は酌。『織田家雑録』に「ナベニハ酌子ガソフモノトナリテ酌ト名ツケ玉フ」とあり、その名は母のお鍋の方の「鍋」になぞらえて付けられたという[1]。『小倉氏采地折紙寫并雑記』(東京大学所蔵史料)によると「信吉 少名 酌 長丸 織田武蔵守 剃髪後号道卜」とされ、幼名は長丸であった可能性もある。これと関連して、大徳寺において営まれた信長の葬儀において、信長の位牌を持った「相公第八男御長丸」は、信吉であるとする研究もある。織田信高は同母兄[2]という説が一般的であるが、当時の一次史料からは確認できず、異説もある。
本能寺の変後、母の興雲院と共に小倉にて暮らしていたが、天正11年(1583年)に羽柴秀吉から召し出されて羽柴姓と武蔵守の官、近江国神崎郡高野村や犬上郡宇尾村に2000石の所領を賜り、羽柴武蔵守と名乗って高野に館を構えた[1]。
豊臣家における役職は不明。 『近江輿地志略』や『淡海温故録』によると、禄高は2万石ともいうが、慶長4年(1599年)12月、豊臣政権の大老から近江国内で2000石の所領安堵の朱印状を交付されており、2000石が正しいと思われる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍につき、弟の織田長次と共に平塚為広勢に加わり、兵500で大谷吉継隊の前備えをなした[1]。9月15日の本戦では主将大谷吉継以下平塚為広・織田長次ら同陣した諸将は討ち死にしたものの、信吉は戦場を離脱に成功した。戦後に改易となり、豊臣家を頼り、大坂城下で暮らす。また、晩年は京都で暮らした。この間に剃髪して道卜と号した。
慶長20年(1615年)4月18日、信吉は京都にて死去した。享年43。法名は小曄院殿雲厳道卜[1]。