羅立言

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羅 立言(ら りつげん、生年不詳 - 835年)は、唐代官僚本貫宣州宣城県[1]

羅歓の子として生まれた。貞元20年(804年)、進士に及第した。魏博節度使田弘正の補佐役をつとめた。陽武県令に任じられ、河陰県令に転じた。宝暦元年(825年)、検校主客員外郎となり、河陰院塩鉄留後をつとめた。宝暦2年(826年)、買い上げ米の量を誤魔化し、19000貫を横領した罪に問われた。塩鉄使はかれの才能を惜しんで、罪を侍御史の兼官の剥奪にとどめた[2][1]

大和9年(835年)、立言は廬州刺史から召還されて司農寺少卿となり、太倉の出納物をつかさどった。鄭注に厚く賄賂を贈り、李訓に重んじられた。李訓に任用されて京兆少尹・知京兆府事となった[2][1]。この年の11月21日12月14日)、甘露の変宦官誅殺を図って失敗した[3][4]11月24日12月17日)、立言は一族とともに処刑された[5][6]

脚注

伝記資料

参考文献

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