美濃脇坂藩
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→「脇坂安信」および「池田長頼 § 刃傷事件」も参照
脇坂安信は、「賤ケ岳の七本槍」に数えられる脇坂安治の三男[3][4]である。徳川家康に仕え、慶長年間[2][4]に美濃国内で1万石の知行を与えられた[3][4][5]。
安信は娘を兄である脇坂安元(後述の事件当時は信濃飯田藩主)の養女としたうえで、池田
長幸は、嫡子である長常と不和であったため[7]、病弱であることなども理由に挙げて[8]、6万5000石の領知の半分(『徳川実紀』によれば過半[7])を二男の長純に分ける意向であった[9]。親族たちはこれに同意したが[10]、長幸の弟の池田長頼(旗本3000石[8])だけは納得しなかった[10][3]。『徳川実紀』によれば長頼は、長男に遺領を残らず譲るべきであり、二男に過半を与えるのは道理が通らないと主張した[7]。親族は長頼を排除して評議に加わらせなかったため[10][7]、憤慨した長頼は会合の席に押しかけて[7]刃傷に及んだ[10][3]。脇坂安経は殺害され、安信も負傷した[3]。